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【2024/10/06 07:43 】 |
三都主アレサンドロの踊り
三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、SANTOS Alessandro, 1977年7月20日 - )は、ブラジル出身で名古屋グランパス所属のサッカー選手。元日本代表でキャップ数82は歴代6位。愛称はアレックス。
パラナ州マリンガ生まれ。明徳義塾高等学校出身。2001年11月12日、ブラジル国籍から日本国籍へ帰化した。帰化以前の登録名はアレックス(Alex)。利き足は左。
ポジションは左ウィングバック、攻撃的MFとしての出場のほか、清水エスパルス時代にはフォワード、名古屋加入以後はセンターハーフ、日本代表では左サイドバックでも出場する。
目次 [非表示]
1 来歴
2 所属クラブ
3 個人成績
4 チームタイトル
5 個人タイトル
6 代表歴
6.1 出場大会
6.2 試合数
6.3 関連項目
7 CM出演
8 外部リンク
来歴 [編集]

1993年、ブラジルにスカウトに来ていた当時の明徳義塾サッカー部監督の北村保夫の目に留まり、日本に誘われる。「日本でプロも目指せる」との言葉に心を動かされ、1994年、16歳の時に高知の明徳義塾高校にサッカー留学で来日。高校時代は予選突破が出来ず全国大会に出場できなかったため、ほとんど無名であった。高校時代はアレッさんと呼ばれていた。
明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。
当初、清水ではスーパーサブ的な役割での出場が多かったが、1998年以降は左サイドでのスタメンでの出場機会が増えた。1999年にはスタメンとして左サイドのポジションを不動のものとし大ブレイク。同年2ndステージ優勝(年間勝点では1位)に大きく貢献、史上最年少の22歳でJリーグMVPを獲得した。また、1999-2000年アジアカップウイナーズカップ、2001年天皇杯優勝にも貢献した。
ちょうどその頃から、周囲から日本への帰化の話が持ち上がるようになっていた。かなりの期間日本で暮らして日本での生活にも慣れ、日本人の恋人もおり、日本代表にも魅力を感じていた。悩んだアレックスは、以前に同じく清水に所属し、同様にサッカー留学から日本のサッカークラブに入団した三渡洲アデミールに相談。その三渡洲から「帰化するならその国に骨をうずめても良いというくらいの気持ちで帰化すべきで、代表に入りたいという理由だけで帰化するならやめた方がいい」とアドバイスされ、熟考の末に帰化申請を決意する。
2001年11月12日、帰化申請が認められ、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している。 ただし、以前から呼ばれていた『アレックス』という通称に特別の思い入れを持っていたため、これからもアレックスと呼んで欲しいと言っていた。
2002年、日韓W杯に日本代表として選出される。切り札として期待されていたが、出場機会は少なかった。それでも、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦では惜しいFKを放った。
2003年12月に結婚(2005年9月第1子(長男)誕生)。清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに移籍する。浦和での応援歌の原曲はポパイのテーマ。
2002年W杯後、ジーコを監督に迎えた代表では左サイドバックのレギュラーとして常時出場したが、ドイツW杯では4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈してしまった。しかし一方では後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム(当時ジェフ千葉監督)が「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか? 左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と語るなど攻撃面は評価された[1]。2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。しかし、監督が岡田武史に代わると代表に呼ばれなくなり、3回目のワールドカップ出場はならなかった。
2007年1月30日から1年間、浦和からオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍し、同リーグでの優勝を経験。
2008年1月27日、浦和へ復帰するも、Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う。第14節の柏戦にて復帰するが、出場僅か15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。
2009年、浦和の新監督としてフォルカー・フィンケが就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減した。このため出場機会を求めて移籍を志願し、同年8月にドラガン・ストイコビッチ監督のラブコールを受け名古屋グランパスへと完全移籍した。
清水時代、ゴールを決めた後、テツandトモの「なんでだろ~」のパフォーマンスをサポーターに披露。顔がアメリカ合衆国大統領のバラック・オバマに似ていると評される。三都主自身も自覚しているようで、小学校訪問などでは「こんにちは、オバマです」と挨拶することがある。
帰化後もJリーグでの登録名は「アレックス」とし、2002年W杯での登録名も「アレックス(ALEX)」とするよう申請し、FIFA(国際サッカー連盟)も承認する。本人も「三都主でもアレックスでもどちらでもいい」と語る。チームメイトは「アレックス」や「アレ」と呼び、浦和やレッドブル・ザルツブルクの選手紹介の時には「アレックス」と紹介される。
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【2010/11/10 01:01 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
英智
英智(ひでのり、1976年5月9日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。本名は藤本英智(ふじもと ひでのり)で、旧姓は蔵本。愛称は「ひでのり」、「クラ」、「クララ」など。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 年度別守備成績
4.3 背番号
4.4 獲得タイトル・表彰
4.5 個人記録
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
県立岐阜商業高校では控え投手からセンターのレギュラーとなる。その後進学した名城大学では3番センターとして活躍し、投手も兼任。1998年、愛知大学野球リーグで春・秋季ベストナイン外野手に選ばれた。
1998年のドラフトに中日ドラゴンズから4位指名され、入団。
プロ入り後 [編集]
ルーキーイヤーの1999年、2000年は一軍出場なしに終わった。入団当初から俊足強肩が高く評価され、山田久志監督の時代には投手と外野手の兼任案が出たこともある。しかしバッティングに課題があり、なかなか一軍に定着できなかった。
2004年のシーズンから指揮を執る落合博満監督が掲げた「オレ流野球」の一つ「一芸に秀でた選手が必要」を象徴する選手として、2004年シーズンは開幕から一軍の守備固めおよび代走として活躍。徐々に出場機会が増え、福留孝介が8月にアテネオリンピック出場のため欠場、さらに9月に死球による骨折で戦列を離れると、右翼手のレギュラーに定着し、ゴールデングラブ賞を獲得した。レフト英智、センターアレックス、ライト福留と組んだ堅守で一躍有名となった。
2005年は走塁中に肩を強打して負傷した影響もあり、打率1割にも満たない打撃不振に陥った。また代走専門選手として活躍していた澤井道久がシーズン後半から登録を抹消されたため、やむを得ず代走で起用され守備位置の関係で途中交代させられるなど、起用法が一定しなかった。
しかし2006年には、落合監督が「秋にあれだけ振ったんだからな。一番練習してる奴が打つ」と話すように、人一倍の練習量で打撃の弱さを見事に克服し成績が向上。5月には3回のヒーローインタビューを経験。6月には自身4年ぶりとなるホームランを放った。2試合連続で満塁のチャンスから2点タイムリーを打ったため、満塁男と言われたこともある。
2007年は李炳圭の加入でシーズン序盤は代打、代走、守備固めでの起用が多かったが、李の低迷や福留の戦線離脱もあり、打撃好調ということもあり、中盤以降はスタメンでの起用が増加。しかし、9月26日の対巨人戦で肉離れを起こし、残りのシーズンを棒に振ってしまう(落合監督はその後のメンバーのやりくりについて「クラ(英智の愛称)の離脱が一番痛かった」と語っている)。シーズンオフ、2008年シーズンからの背番号が57から24へ変更されることが発表された。これは落合監督が「57ではケガが多いから」という理由であり(彦野利勝の項も参照)、新番号で心機一転を図って欲しいという願いがこめられている。また、5と7の付いていた2005年と2007年はケガをしている。
2008年も、代走、守備固めであったが、交流戦に入ってレギュラーだった森野や李が怪我で離脱したことによってスタメン出場する機会もあった。だが、森野や李が復帰後は二軍落ちも経験するなど77試合に留まった。2009年は、藤井淳志やルーキーの野本圭らの台頭もあり、開幕を二軍で迎えたが4月21日に一軍登録され、その日の対阪神戦で6番・右翼手で今季初出場を果たした。
プレースタイル [編集]

プロ野球界で史上屈指の俊足・強肩(ナゴヤドームのホームベースからセンターに向かって遠投してフェンス直撃)・守備範囲の広さで知られる。
凡フライを落球した際、「あいつ(英智)が捕れなきゃ、誰も捕れないよ」と落合監督に言わしめるほど信頼されている。
2004年以降、強肩が警戒され相手チームが進塁を自重する場面が多くなったため、補殺数は少なくなっている。とは言え、地面すれすれの飛球を回転しながら捕球したり、フェンスに足を掛けてよじ登りながら捕球したりするなど、持ち前の運動能力の高さを生かしたダイナミックなプレーで守備のスペシャリストとして存在感を見せている。走塁の技術にも磨きがかかり、試合の流れを変える頭脳的な好走塁も多い。立浪和義は、「守備・走塁要員としてメジャーリーグのスカウトが偵察に来たことがある」と明かしたことがある。
飛球の捕球方法が独特である。通常は縦にグローブを構えるところ、横に寝かせて捕球する。英智いわく、「飛球がぶれたり風で流されたり、またお手玉してしまった場合でも上下左右に動かしやすく対応しやすい」とのことである。これは中日で同僚だった大西崇之から学んだもの。
人物 [編集]

英智の兄2人も県立岐阜商業高校で野球をしており、高校生時代は『蔵本三兄弟の三男』としてプロのスカウトに知られていた。(長兄の蔵本雅由はその後名城大学を経て社会人野球の一光入りし、チーム創設時から長年エースとして活躍した。次兄の蔵本敬充(たかみつ)は法政大学野球部でも野球を続け、その後はモデルに転身して活躍しており、その後キヤノンのビデオカメラや日産・ノートのテレビCMにも出演した。ただ、英智は「野球は父親の影響で始めたが、スパルタ式の指導が嫌でずっと辞めたかった」と語っており、高校時代、強豪だった母校が甲子園に出場した時を想定し、それを機に辞める予定だったという。しかし、結果はまさかの県予選3回戦敗退。そのために辞めるきっかけがなくなってしまい、野球を続けることにしたのだった。)
見かけや雰囲気は朴訥そのもので、実際に恥ずかしがり屋。多くは語らないが、口を開いた際はかなり独特な発言をする。以前はそれほど目立つ選手ではなかったが、ヒーローインタビューでの受け答えでファンが急増。いまやチーム内では押しも押されもせぬ人気選手となっている。
打席登場曲は通常時がTHE HIGH-LOWSの「日曜日よりの使者」、チャンス時が「RCサクセションの雨あがりの夜空に」である。ちなみに、以前は風貌と似つかわしくないLINDBERGの「BELIEVE IN LOVE」であった(ランナーのいない打席では井上陽水の「Make-up Shadow」)。
同期の福留孝介は「あの人間離れした運動神経は、どんなスポーツをやらせてもうまいだろう。」と言っている。また、報道ステーションのナレーションには「野生人」とも言われたことがある。
中日ドラゴンズのマスコットであるドアラと仲が良く、中日ドラゴンズ公式ブログではしばしば彼とドアラが会話している場面の写真が掲載されている。3年目の2001年フレッシュオールスターゲーム出場、その時点では一軍出場経験皆無だった。
婿養子であり、蔵本は旧姓である。「なんでお父さんは、野球の時は苗字が違うの?」と子供に聞かれたため、2004年から登録名を「英智」に変更した。
2004年6月27日の阪神戦では、葛城育郎の放った犠牲フライとなる打球を、好返球で三塁走者の桧山進次郎を刺し、お立ち台に立つ。2005年8月5日の対横浜戦にで、1点を追う最終回、1死満塁のチャンスに三塁走者の英智は、立浪和義の浅い右飛で同点となるホームインをし、落合監督は「英智はプロだ」と述べる。2006年5月10日、対日本ハム戦で、延長11回表、岡島秀樹のワイルドピッチで二塁からホームインする。同年8月12日の対阪神戦、2回裏2死で二塁走者の英智は、荒木雅博のライト前ヒットで、前進守備だったが、3m超のロングヘッドスライディングでホームインし、落合監督は「あれで(本塁に)帰って来られるんだから凄い。ああいうプレーを見せられるのがプロだ」と述べる。
2006年5月3日の対横浜戦8回裏の満塁の場面の2点決勝適時打でお立ち台へに立ち、「代えられると思ったけど、曲が流れても監督が出てこないんで、僕かと思って打席に立った」「去年などの僕であれば、間違いなく代えられていた」などと発言する。翌4日も満塁から2点適時打でお立ち台に立ち、「今日は監督を見ずに打席に立てました」と発言する。同年8月11日の対阪神戦、下柳剛から2点タイムリーを放ち、お立ち台に上がる。「下柳さんはいつもタイミングが合う」という発言をし、さらに「僕は川上さんみたいにスーパーサイヤ人じゃないので、ナメック星人程度に頑張ります」とドラゴンボールに例えて発言している。
2007年4月19日の対阪神戦で代打逆転タイムリーヒットを放ち、同じく代打でタイムリーを放った立浪と共にお立ち台に上がる。カウント2-1と追い込まれてから打ったことに「みんなと一緒でダメだと…。半分ダメっぽいと思いながらも、最後まで諦めないのが僕のベースボールスタイルなんで。かじりついて(食らいついて)いきました」と英智節を披露。そして、立浪と一緒のお立ち台に対して、「今日のお立ち台の写真は後からパネルにしてもらいたい。僕が小学校の頃、ナゴヤ球場で1000円しかお金無いのに1000円のテレホンカードを買ったのが立浪さんなんです。そういう方とお立ち台に立てて、野球やめた時にいい思い出になっていると思います」と、喜びを語っている。
2007年6月8日、対西武戦で、9回表に中島裕之の2ランで逆転された後の裏、2死二・三塁の打席で初球を狙いライト線への長打コースで2人のランナーが生還。更なる逆転でチームは3連敗から脱出することができた。
2007年7月14日、対ヤクルト戦で、同点で迎えた7回裏1死二・三塁で三塁走者は英智。ヤクルト内野陣は補殺を狙った前進守備を敷き、打者タイロン・ウッズは注文通りのセカンドゴロ。にもかかわらず、英智は二塁手の田中浩康が本塁に投げるのを諦めるほどの判断の早さで本塁に突入し、見事に勝ち越しのホームインとなった。試合後、英智は「7割は経験、3割はギャンブル。代走要員だった頃の経験が生きている」とコメントしている。
上述の「ベースボールスタイル」について、同年8月19日の試合後(この日、ナゴヤドームで一軍戦で初めてのホームランを放つ)、「ボクには48のベースボールスタイルがある」と語っている。この数は相撲の決まり手(俗に言う「四十八手」)や漫画「キン肉マン」の「48の殺人技」と同じ数である(ただし、このコメントはヒーローインタビュー時ではなく、その後のベンチ裏で記者に答えたものである)。その後もヒーローインタビューなどでは様々な「英智のベースボールスタイル」の種類をも語っている。
2008年6月9日の対楽天戦ではこのシーズンより背番号が57から24に変わって初めてのお立ち台だったことから、「57番(の時)より(現在の)24番の姿を多く見せられるように頑張りたいです」と発言。また、対戦相手が田中将大であり、「(田中投手は)逞しい投手ですけど、何とかやっつけることができました」と語っていた。
【2010/11/08 20:20 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
和田一浩
和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。
マネジメント契約先はスポーツビズ。
愛称は同姓の和田勉にちなんだベンちゃん(ベン)、ビッグベンなど。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 西武時代
1.3 中日時代
2 プレースタイル
2.1 打撃
2.2 守備
2.3 その他
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 年度別守備成績
3.3 背番号
3.4 タイトル・表彰
3.5 個人記録
4 出演
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
岐阜県岐阜市出身。県立岐阜商業高校では2年時に控え捕手として第61回選抜高等学校野球大会と第71回全国高等学校野球選手権大会に出場した。
高校卒業後、東北福祉大に進学し、仙台六大学野球連盟のリーグ戦では4年間で首位打者1回、ベストナイン2回を獲得する。4年時には主将を任され、春のリーグMVPに輝いた。
大学卒業後は社会人野球の神戸製鋼に入社。社会人通算.429の打率を残し、強打の捕手として1996年のドラフトで西武ライオンズから4位指名を受け入団。
西武時代 [編集]
ルーキーイヤーの1997年は、主に代打として17試合に出場し、プロ初安打・初打点を記録。
1998年は、正捕手伊東勤の厚い壁のため、捕手だけでなく外野手としても出場機会を増やし、外野手で9試合にスタメン出場した。この年プロ初本塁打を記録。
1999年は、伊東勤、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番・左翼手として起用された。
2000年には、打撃が認められて出場機会が増え、規定打席未満ながら3割を打った。9月9日には4番も任され、9番以外のすべての打順でスタメン出場。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。またこの年に、同僚の中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており、当時背番号22だった和田は当時中嶋がつけていた一桁の5と背番号を交換している。
2001年は、東尾修監督に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を打って注目を集めた。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外すべてに起用され、本格的にレギュラー獲得とはいかなかった。9月24日の対近鉄最終戦で松坂大輔がタフィ・ローズに55号ホームランを打たれ、中村紀洋に逆転サヨナラ2ランを打たれた試合で捕手としてフル出場していた。
2002年は、新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番左翼手のレギュラーに定着。初めて規定打席に到達し、打率.319、本塁打33本、81打点と、定着1年目から中軸打者として申し分のない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。しかし、レギュラーとして迎える初めての日本シリーズでは15打数無安打の大不振。指名打者部門で初のベストナインを受賞。
2003年は、前年よりさらに成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。また柴田博之が出場する際には中堅手や右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞。
2004年は、アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続3割30本80打点を達成。5月30日の対日本ハム戦(函館市千代台公園野球場)で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦(対日本ハム戦)で、横山道哉からサヨナラ本塁打を放ち、チームを勢い付ける。 後に移籍することになる中日との日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。
2005年は、春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦(打率.319)以来12年ぶり。4年連続30本塁打には3本届かなかった。
2006年3月、WBC日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。
6・7月が不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。しかし、自己最高の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。
2007年は、9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1000本安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録。本塁打はレギュラー定着後最低の18本、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)に終わった。この年は塁上に走者がいる場面では打率.224と低迷し、リーグ3位の22併殺打を記録した(逆に走者なしでは.353と好調であった)。
この年初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決。なお、背番号は西武時代と同じ"5"が内定し、3年契約となる。[1]
中日時代 [編集]
2008年、中日入団1年目も、西武時代と同じく5番を任される。序盤は不振であったが徐々に調子を上げていく。また、主砲であるタイロン・ウッズが不調の際には4番も務めた。この年通算1000試合出場を達成。2年連続3割を打つなど活躍したが、得点圏打率は.275とチャンスでは期待されたほどの成績を残せなかった。契約更改の際、「2009年シーズンはチャンスでもっと打っていきたい」と発言している。
2009年は、前年3割を打ったにもかかわらず「ぜんぜんダメでしょ。自己ベストより1本でも1厘でも1打点でも上にいきたい」と春季キャンプで打撃改造を行い、オープンスタンスの幅や足の上げ方を変えた。前年までの主砲のタイロン・ウッズ、中村紀洋が退団したため主砲として期待され4番に座る可能性もあったが、開幕はいつもの5番でスタートし、開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切った。4月25日の巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。5月12日のヤクルト戦では地元岐阜の長良川球場で初のホームランを放ち故郷に錦を飾った。6月21日のオリックス戦で平野佳寿から先制の満塁本塁打を放った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治や落合博満をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太とともに受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と絶好調。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割をマークし、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上げ、打撃主要部門全てでリーグトップ10に入った。守備面でも元捕手の強肩かつ堅実な送球で12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場(144試合)した。
2010年は、序盤から打撃が好調で、4月を終えて.376、5月を終えて.358の好成績でシーズン終盤まで打撃成績トップを維持し続けた。また、交流戦の途中から不調のトニ・ブランコにかわり4番を任されるようになった。シーズン終盤に少し調子を落とし首位打者は青木宣親に譲ったものの最終的に打率.339、37本塁打、93打点とチーム三冠の活躍でチームの4年ぶりの優勝に大きく貢献した。また昨年に続き2年連続でシーズン全試合に出場した。クライマックスシリーズ第2ステージの巨人との試合では、第4戦に9回裏3-3の場面で久保裕也から左翼手のアレックス・ラミレスの頭上を越えるサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに輝いた。日本シリーズでも第2戦・第4戦で猛打賞を記録するなど好調を維持し、7試合で29打数12安打1本塁打6打点と活躍。チームは2勝4敗1分で敗れたが、敢闘選手賞を受賞した。
プレースタイル [編集]

打撃 [編集]
独特の打撃フォームから弾き出す安定した打撃が特徴。2009年6月21日のオリックス戦で通算打率ランク算出の最低ラインとなる4000打数に到達し、その時点での通算打率.315は日本人右打者としては最高打率であり、三度の三冠王を獲得した落合博満(現中日監督、同じく右打者)をも上回る。率だけでなく広角に長打も打てる強打者でもあり、2005年は全27本の本塁打のうち8本を右方向へ放ち、右打者の右方向への長打率でリーグNo.1になっている。西武在籍時は、5番に和田がいることで相手バッテリーが4番のアレックス・カブレラとの勝負を避けられない場面が多かった。
バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームによるフルスイングが持ち味で、あまりに特徴的過ぎるため「真似するのは無理」「子供に薦めてはいけない」と冗談混じりに言われるほどである。一見非常に粗いフォームでありながら、バットコントロールが巧く、三振は少ない。スイングの後、腰が落ちたような形になるので、左方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもある。最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事により併殺打が多い。2009年からは打撃改造に伴って構え方が変化、和田特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。ただ、オープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。
独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森の打撃理論を理想的に実践しているため金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている。
レギュラー定着後、9年で3割以上を8度記録など華々しい記録をもっているが、シーズン100打点を記録したことは一度もない。原因としては故障などでフル出場した年が2009年を除いて無いことと、毎年前打者が外国人選手のホームランバッターである事が多く、ランナーが既にホームランによって帰されている場面があった事が挙げられる。得点圏打率は年によってややムラがある事も特徴。2006年シーズンは100打点には届かなかったものの19本塁打で95打点であった。しかし、その年は和田がレギュラー定着後、唯一打率3割(.298)を切った年でもある。逆に、翌2007年シーズンは打率.315、18本塁打を記録したものの、49打点と前年からほぼ半減させてしまっている。
守備 [編集]
捕手出身として考えれば特別強肩というわけではない。しかし捕手出身だけあって捕球してから投げるまでが速く、コントロールは正確である。さらにフェンスに当った後などの打球判断が良いこともあり補殺は多く、セ・パ両リーグでシーズン最多補殺を記録している(肩が強いという印象が薄いため、和田のところに打球が飛ぶと走者が本塁へ突入するということも一因ではある)。和田のスローイングに関して、谷繁元信は「上品な球」と表現している。[2]また、「ボールを見ていなくても取れる範囲に送球がくる。走者を見ていられるためブロックしやすい」とも評している(一方で強肩として知られる藤井淳志に対しては「(コントロールが悪く)ボールを見ていないといけない」と評している)。
スライディングキャッチなど積極果敢なプレーを見せるが、基本的に守備範囲は狭いため、中日時代にはタイロン・ウッズ放出後に、一塁手へのコンバート案が浮かび上がったことがある。
その他 [編集]
ボールを避けるのがうまい。2010年では出場試合数が144試合であるにも関わらず、死球数は0である。
【2010/11/08 20:19 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
森野将彦
森野 将彦(もりの まさひこ、1978年7月28日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
内野、外野全てのポジションが守れるユーティリティプレイヤーとして知られている。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り後
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 年度別守備成績
3.3 背番号
3.4 タイトル・表彰
3.5 個人記録
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

小学校時代は川島イーグルスに所属、また横浜大洋ホエールズ友の会にも加入していた。東海大相模高校では1年生時よりレギュラーとして活躍し、1995年の春の選抜大会に出場。3年生時には主砲として、全国高等学校野球選手権神奈川大会準々決勝で横浜高校と対戦したが、松井光介に3四球の敬遠と勝負を避けられ、チームは惜敗。しかし唯一相手が勝負にきた打席では本塁打を打ち、意地を見せている。高校通算38本塁打。1996年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名され入団。
プロ入り後 [編集]
ルーキーイヤーの1997年8月29日、ナゴヤドームでの対ヤクルトスワローズ戦で8番・遊撃手で初先発し、初本塁打を放った(高卒新人本塁打は中日では立浪和義以来)。2002年から先発出場の機会が増える。
2005年、井上一樹、大西崇之、英智らと左翼手の座を争った。また立浪に代わって三塁手としても出場することで出場機会を増やした。
2006年、背番号を31に変更(31にした理由は掛布雅之に憧れていたため)。三塁手の座を立浪と争っていたが、オープン戦で死球を受け右手小指を骨折。交流戦半ばに復帰し、故障の荒木雅博に代わりセカンドを守る。6月25日、プロ初の満塁ホームランとプロ初のサヨナラヒットを放ち活躍。荒木の復帰後、立浪から三塁手の座を奪う。一時打率3割、得点圏打率4割の活躍を見せて、初めて規定打席に到達。9月16日、山本昌がノーヒットノーランを達成した対阪神戦で、赤星憲広の三ゴロをエラー。結果的に許した走者はこの1人だけだったために、完全試合を逃すプレーとなったが、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそ(ノーヒットノーランの)記録が達成できた」と発言した。これは打者は俊足の赤星憲広であったため、仮に上手く捌けていたら内野安打となり、ノーヒットノーランも達成できなかっただろうと山本昌自身が考えたためである。
2007年、三塁手中村紀洋の加入に伴い、主に左翼手として出場。その後は荒木の戦線離脱もあり、前半戦は二塁手としても出場。オールスター戦に初出場を果たし優秀選手賞に選ばれた。後半戦以降は福留孝介の離脱もあり、中堅手や右翼手としての出場も増え、打順は5番か3番を任された。このシーズンはバッテリー以外の全てのポジションを経験。2年連続で規定打席に到達し、更に自己最高の打率.294、18本塁打を記録。本塁打と打点は前年よりほぼ倍増し、打線の中軸としての役割に応えた。日本シリーズでも4打点を挙げて優秀選手賞に選ばれた。
2008年、左翼手和田一浩の加入により主に中堅手として出場。春季キャンプで左手甲を骨折したが、開幕戦に7番・中堅手として出場。打順は開幕当初は7番だったが、6番を経て3番に戻る。5月に左ふくらはぎ肉離れで戦線を離脱するも7月5日に復帰。8月、北京オリンピック野球日本代表に選出。北京五輪後は故障の井端弘和に代わり1番を、主砲・タイロン・ウッズが不調の際には4番を任され、このシーズンは2番・8番・9番以外の打順を経験した。自身初の打率3割を記録。8月、国内移籍が可能なFA権を取得。オフに球団と年俸変動制の5年契約を結んだ。
2009年、このシーズンは中村紀洋の楽天への移籍により、主に三塁手として出場。開幕から3番を任されるが、開幕後の2ヶ月間は打率.250にも届かない不調に陥る。6月、1軍登録日数が9年に達し、海外移籍も可能なFA権を取得。6月からは打撃も復調。8月7日の対横浜戦で自身初となる1試合2本塁打・5安打と活躍。8月27日の対巨人戦でプロ入り13年目にして初の20本塁打を達成した。尚、シーズン終盤は同僚のトニ・ブランコと打点王争いを繰り広げるも、最終的には1点差で2位に終わる。本塁打・打点は自身最高の成績を挙げた一方で、守備面では両リーグ最多の25失策と乱れた。11月5日、この年で現役引退した立浪の背番号3の引継ぎを打診されたが、契約更改の席上、前述の失策の多さ、ファンの多くが野球界の永久欠番なる事を期待した事などを理由として、時期尚早であると自ら保留し、2010年は前年にルーキー野本圭がつけていた30をつけることになった(野本は引退した井上一樹の9をつける)。
2010年から選手会会長職に就任した。
プレースタイル [編集]

打線の主軸を打ちながら内外野の複数のポジションを守れる。
ここ数年は主に三塁手、外野手、二塁手として出場。内・外野用のグラブを遠征でも持参している。このため、三塁手専任となった2009年シーズンで初めて一塁手を守った6月10日の対楽天戦(宮城球場)でも自分のファーストミットで守備に就いた。2005年頃から三塁手としての出場機会が増え、落合監督からもノックで鍛えられ、且つレギュラーも獲得する程に上達したのだが、2007~8年にかけては、中村紀洋の存在もあって、外野手(レフト・センター)での守備に就く事が多くなった。その後、本格的に三塁手専任となった2009年以降はそれまでの外野でのプレーが内野守備の妨げになり(外野と内野のスローイングの違いによるものと本人も語っている[1])、上手かったはずの三塁守備で失策が増えつつある。
通算本塁打の割合に3ランが多い(特に2007年シーズンは、レギュラーシーズンは18本中8本。ポストシーズンでも2本中1本)ことから「ミスター3ラン」の異名を持つ。ちなみに、2007年までの通算55本中19本が3ランであった。
打撃では元々早打ちの傾向があったが近年は四球が増え出塁率も向上している。粘り打ちの技術が向上し特に2010年は三振が少ない。中距離打者ではあるが、得点圏打率が高く打点を稼げる為3番や5番での出場が多い。盗塁は少ないが足は遅くは無く走塁能力は平均的である。
左投手に弱く、対左打率が3割を越えたシーズンがない。特に2010年は右投手に打率.373と高打率を残したのに対し、左投手には打率.255と大の苦手とした。
バット、グラブはZETT製のものを使用している[2]。
【2010/11/08 20:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り506
ドイツ軍占領下での生活 [編集]
アドルフ・ヒトラーは1940年5月25日にオランダの国家弁務官(総督・民政長官とも訳される)に親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトを任じた。ザイス=インクヴァルトは占領当初「穏健」な態度をとり、オランダ社会に急激な変化をもたらさないよう気にかけた。オランダ政府閣僚はすでに国外逃亡していたが、事務次官以下官僚機構はそのままオランダに残っており、オランダの行政機能はこれまでとほとんど変りなく機能した[80]。またザイス=インクヴァルトは、反ユダヤ主義についても即時にオランダに持ち込むことはしなかった。そのため占領後もしばらくの間は、アンネの生活に大きな変化はなかった。ハンネやサンネとも今まで通り遊んでいた[81]。アンネはオランダ降伏には怒っていたし、同級生がドイツ人(モッフィー)の悪口を言っていれば一緒になって悪口を言ったけれど、この頃にはまだ将来への強い不安までは感じてはいなかったという[82]。
1940年5月28日にはベルギーがドイツに降伏、さらに6月22日にはフランスもドイツに降伏した。ドイツの情勢が安定してきたことで、ザイス=インクヴァルトは徐々に「穏健」の仮面を脱ぎ捨ててユダヤ人迫害を開始するようになった。まず1940年7月にザイス・インクヴァルトよりオランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録せよとの命令が下った[83][84]。さらに8月には「1933年1月1日以降にドイツからオランダへ移住したユダヤ人はその旨を登録せよ」との命令が出された。フランク一家はこれらの命令に従って登録を行っている[85]。
1940年10月22日には「ユダヤ人が経営者、若しくは共同経営者である企業、又は資本金の25%以上がユダヤ人の所有になっている企業はその旨を届け出よ。」との条例が公布された[86][87][88]。オットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープ・ザントルーシッツの愛人。二人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ラ・サンテーズ」を設立した。この企業はいざという時にペクタコン商会の営業を引き継げるようになっていた[89][90]。
1941年1月9日以降にはオランダ映画館主同盟がユダヤ人の映画館入場を拒否したためユダヤ人は映画館に入れなくなった[4]。アンネはハリウッドの有名なスターの写真を切り抜いては台紙に張ってコレクションするような映画好きの女の子だったのでこれは大事件だった。結局、フランク一家は自前で映写機・スクリーン・フィルムを用意して自宅で上映会を行うようになった[91]。
1941年末にはドイツ政府はオランダの反ユダヤ主義世論を盛り上げるため、反ユダヤ主義宣伝映画『ユダヤ人ジュース』をオランダ全国で上映させた。同じ頃「オランダ・ナチス」と通称される「国家社会主義運動」(nl:Nationaal-Socialistische Beweging,略称NSB)の「国防部隊」(nl:Weerbaarheidsafdeling,略称WA)隊員のオランダ人によるユダヤ人への暴力テロ活動が増加した。その際にWA隊員のオランダ人が一人死亡した事件でユダヤ人の迫害が強まった[92][93]。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令により1941年2月22日から23日にかけてアムステルダムで最初のユダヤ人狩りが行われ、ユダヤ人400人が捕まった。彼らはマウトハウゼン強制収容所へ移送された。このうち戦後に生きてオランダへ帰れたのは2人だけだった[94][88][95][96][# 4]。
1941年3月12日に「経済の非ユダヤ化条例」が出されたのを機にオットーはペクタコン商会の株式をクレイマンに譲渡して名目上所有者から離れた。またヤン・ヒースの協力を経て、社名を「ヒース商会」に変更した。しかし実際の企業運営は引き続きオットーが中心になって行っていた[97]。
1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止された[98][99]。アンネはプールに行けなくなったことを嘆き、「日焼けしようにも、あまり方法はありません。プールに入れないからです。残念ですけど、どうしようもありません。」と1941年6月末にスイスにいる父方の祖母アリーセに宛てた手紙で書いている[99][100]。
1941年8月29日にはユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布された[101]。アンネはモンテソーリ・スクールへ通えなくなり、マルゴーともどもユダヤ人中学校へ転校することとなった。ユダヤ人学校でアンネは新たな親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(愛称ジャック)(Jacqueline van Maarsen)[# 5]と出合った。アンネとジャックは家が近いにもかかわらず、しょっちゅうお互いの家に泊まり合っていた。アンネはジャックの家に行くのに大した荷物もないのにスーツケースを持っていった。スーツケースがないと旅行気分が出ないからという[105]。
1942年1月29日には同居していた祖母ローザ・ホーレンダーが死去している。おばあちゃんっ子のアンネには衝撃だった。アンネは後に書く日記のなかでも祖母の死について触れ、「おばあちゃんのことは、いまでもこの胸に焼き付いています。私が今でもどれだけおばあちゃんを愛しているか、きっと誰も想像がつかないと思います。」と書いている。アンネは思春期になるにつれ、母エーディトとの摩擦が増えていた。アンネとエーディトの親子喧嘩の仲裁役になれるのはアンネの祖母でエーディトの母であるローザだけだった。その事もアンネが祖母好きな理由であったという[106]。


オランダのユダヤ人が着用を義務付けられたダビデの星。
1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーにおいてユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務付けられた。これは先にポーランドやドイツで実施されていたものが導入された物であった。オランダのダビデの星には中央に「Jood」(ユダヤ人)の文字が入っていた[107][108][109]。1942年6月22日にはオランダの親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊中将より「ユダヤ人は所有している自転車を48時間以内に当局に提出せよ」との命令が下された。フランク一家はこの命令に従わず、マルゴーの自転車を隠し持つことにした。アンネも専用の自転車を持っていたが、彼女の自転車は復活祭の休み中に何者かに盗まれてしまっていたため、この頃にはすでに所持していなかった[110]。アンネにとって厳しかったのは1942年6月30日のユダヤ人外出制限命令だった。ユダヤ人は夜8時から朝6時までの間の外出を禁止され、また非ユダヤ人を訪問したり、あるいは訪問を受けることを禁止された。ユダヤ人の子供にとって友達と遊ぶのに大きな影響がある命令だった[111]。
1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった[112]。アンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし[# 6]、その日、最初の日記をつけている。後世に「アンネの日記」として世界的に知られることになる日記の執筆の始まりである。なおアンネは日記帳を「キティー」と名付け、この「キティー」に手紙を書くという設定にしていた。なぜキティーだったかははっきりとしないが、アンネの友達の一人にケーテ・エヘイェディ(愛称キティー)(Käthe "Kitty" Egyedi)という女の子がおり、この子から来ているのではないともいわれる[114]。日記の最初はこのように記されている。
あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね[115][116]。

– 1942年6月12日

1942年6月終わり頃、アンネは3歳年長のヘルムート・シルベルベルフ(愛称ヘロー)(Helmuth "Hello" Silberberg)[# 7]という男の子と付き合い始めていた[123]。ヘローはこの時のことを後にこう語っている。「アンネは魅力的な女の子でした。いきいきとしていて機転がきいて、人を笑わせたり、楽しませたりするのが大好きでした。はっきりと記憶に残っているのはいつも大きな椅子に座り、あごに両手を添えてじっと私のことを見ているアンネの姿です。(略)たぶん私はアンネに恋していたのでしょう。ひょっとすると彼女も同じ気持ちだったかもしれません。」[124]。
1942年6月末には夏休み前の学期末試験の通知書がかえってきた。マルゴーは「いつも通りの素晴らしい成績」で、アンネも日記上でしぶしぶ賛辞を呈している[125][126]。一方アンネは予想よりは良かったが、数学の成績が低く、夏休み後の9月に追試を受けることを申し渡されてしまった[125][126]。しかしアンネが再び学校に通える日はもう来なかった。
隠れ家の準備 [編集]


プリンセンフラハト通り263番地にあるオットーの会社の建物。この建物の裏につながって存在する「後ろ家」の三階と四階部分に隠れ家があった。現在アンネ・フランク財団によって管理されており、アムステルダムの観光名所の一つである。
ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになった。ドイツ側は、連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いの下に強制労働に従事しているとしていた。しかしイギリスのBBC放送などはユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されていると報道していた。いずれにせよ明白であるのは、経済の「アーリア化」によりユダヤ人失業者は増大しており(オットー・フランクも書類上は失業者であった)、ユダヤ人狩りで連れていかれる人数は日増しに増え、その対象はユダヤ人ならば誰でも手当たり次第という具合になっていたことである[127]。
危険が迫ってきていると判断したオットー・フランクは、密かに安全な場所へ移り住む準備に取りかかった。1942年1月20日にはオットーはオランダの移民局にイギリスへの移住希望を申請した。ヘルマン・ファン・ペルス一家もアメリカへの移住希望申請を出した。しかしどちらも移住できる見込みはなさそうであった[128]。
移住が不可能と悟り、1942年4月からオットーとヘルマン・ファン・ペルスは、アムステルダム・ヨルダーン地区(nl:Jordaan)のプリンセンフラハト通り263番地(nl:Prinsengracht 263)にあるオットーの会社オペクタ商会とペクタコン商会(ヒース商会)が入っている建物を隠れ家に改築して身を隠す準備を進めた。1940年12月にオットーの会社はこの建物に移動していた[129][130]。四階建ての建物で一階が倉庫、二階が事務所、三階と四階(更にその上に屋根裏部屋もあり)も倉庫として使われていた。この建物の後ろには離れ家(運河に面したアムステルダムの建物にはよくある形状で「後ろの家」(Achterhuis、アハターハウス)と呼ぶ。定冠詞を付けた"Het Achterhuis"はオランダ語版アンネの日記のタイトルとなった)がついており、離れ家の二階がオットーのオフィスと従業員用のキッチンとなった。三階と四階は放置されていた。ここの三階と四階と屋根裏部屋を改築して隠れ家を作った。
ミープ・ヒース(ミープ・ザントルーシッツ。1941年7月にヤン・ヒースと結婚してヒース姓になった)、ヨハンネス・クレイマン、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルら会社の非ユダヤ人社員たちが食料や日用品を隠れ家に運び込む役を引き受けてくれた。オットーは、ドイツ軍に見つからぬよう少しずつ家具などを隠れ家に入れていった。この間、アンネとマルゴーには隠れ家のことは一切知らされていなかった。少しでも娘たちに自由な時間を楽しませたいというオットーとエーディトの考えからだった。ユダヤ人の子供はすでに自由に遊ぶことはできなくなっていたが、それでもアンネは、ハンネ、サンネ、ジャック達とともにイルセ・バーハネルという子の家に集まって卓球をして遊んだり、卓球の後はユダヤ人でもはいれるアイスクリーム屋へ行って男の子達と会って仲良くしたりして楽しんでいた[131]。
1942年7月5日、ナチス親衛隊(SS)からマルゴーに対して7月6日にユダヤ人移民センターへの出頭を命じる召集命令通知がフランク家に届いた。これはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令であった。召集後はドイツ国内の労働収容所へ送られ、労働に従事させられることとなっていた。通知には持って行ける衣類とシーツ、食器類についてのリストまで付属していた[132]。オットーの帰宅後、すぐにヘルマン・ファン・ペルスやミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマンなどと連絡をとり、対策を話し合った。召集命令に応じるのは危険と判断したオットー達は、すぐに潜伏生活を始めることとした。アンネとマルゴーも荷造りの準備を始めた。
7月6日早朝、フランク一家は住んでいたメルウェーデプレインのアパートを出ると、雨の中を歩いてプリンセンフラハト通り263番地まで向かい、隠れ家に入った[133]。アパートを出る際にオットーは二階の住民にあてて手紙を置き遺した。そこでスイスへ逃れることをほのめかし、アンネの飼っていた猫「モールチェ」をお願いする旨を書いている[134]。
フランク一家の突然の失踪は近所の人たちにも知られたが、召集命令が来たユダヤ人は次々と逃げ出していたのでとりたてて不思議には思われなかったようである。すぐに「フランク一家はスイスへ逃げたらしい」という噂が流れた。アンネの友達のハンネやジャックもアンネを探しに来たが、家はもぬけのからになっていた。彼女たちはとりあえずアンネとの思い出の品を探し、ジャックはアンネが水泳競技でもらったメダルを見つけて持って帰っている[135]。
隠れ家生活 [編集]


隠れ家への入口の本棚
プリンセンフラハト通り263番地の「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から三階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。秘密の入口を通るとすぐ右手に四階への階段があった。階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。その右側にアンネ・フランクとマルゴーの部屋があった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。四階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、ここはファン・ペルス一家の部屋となった。また四階にはファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしごがあった。屋根裏部屋の部屋からは西教会の時計塔を眺めることができた[136][137]。隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エディート、長女マルゴー、次女アンネ)、ヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、そして1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居していた[138]。
隠れ家での人間模様 [編集]
隠れ家生活に入ってからアンネと母エーディトは対立することが多くなった。母から自立したいアンネとアンネを心配するエーディトがすれ違っていたせいであった[139]。オットーがよく二人の間の仲裁に入っていた。日記上でも母親を批判する記述は多い。「とにかくママが我慢なりません。ママの前では、自分を抑えて辛抱しなくちゃなりません。そうしないとママの横っ面をひっぱたいてしまいかねませんから。どうしてこんなにまでママが嫌いになってしまったのか。自分でも分かりません」と書いている[140]。しかしやがてアンネは母を傷つけていることを反省して、徐々に攻撃の手を緩めるようになる[141]。
またアンネは成績優秀で控えめな性格の姉マルゴーをやっかむ事が多い。母エーディトがマルゴーを高く評価し、アンネはいつもマルゴーと比べられてお姉さんを見習うように言われるせいだった。アンネはこう書いている。「ママは何かと言うとマルゴーの味方をします。それは誰の目にも明らかです。いつだって二人でかばい合っています。もうそれは慣れっこなので、ママがごちゃごちゃお説教をしても、マルゴーが怒ってきても何とも思いません。もちろん二人のことは愛していますが、それは私のお母さんであり、お姉さんだからにすぎません。一個の人間としては二人ともくたばれと言いたいです。」[142]。しかし後に親への不満を共通の話題にして姉妹仲はよくなった。「特別なことと言えば、マルゴーと私が二人揃って両親が鼻につき始めてることぐらいです。誤解しないでほしいんですけど、私は今でも以前と変わらずお父さんを愛してますし、マルゴーは両親どちらも愛しています。でも私たちぐらいの年になると、誰でもちょっとは物事を自分で決めたくなります。(略)マルゴーも悟ったようです。両親より同性の友達の方が、自分自身について気楽に話せるってことが。」「(マルゴーとは)本当の親友になりかけています。もう私のことを子供扱いして、相手にしてくれないなんて事もありません。」と書いている[143]。
家族の中でアンネが一番好きだったのは父オットーだった。アンネは1942年11月7日の日記には「パパだけが私の尊敬できる人です。世界中にパパ以外に愛する人はいません。」と書いている[144]。アンネはオットーにエーディトへの不満を漏らす事があったが、オットーはアンネに拒絶されて苦しんでいるエーディトを知っていたので必ずしもその言い分を認めなかった。「パパは、私が時々ママについて、鬱憤をぶちまける必要があることを分かってくれません。そのことを話題にしたがらないんです。話がママの欠点について触れそうになると、すぐにその話題を避けようとします。」とアンネは書いている[145]。この件についてオットーは後年、「妻を苦しませたくありませんでしたが、アンネが母に対して生意気で意地悪な態度を取った時、アンネをたしなめるのは、しばしば容易なことではありませんでした。」と述べている[146][147]。
アンネの妥協の無さ、臆することのない舌鋒は、ファン・ペルス夫妻やフリッツ・プフェファーも立腹させることが多かった。彼らは「アンネの躾がなって無い」とよく、フランク夫妻に忠告した。しかしこのような時には母エーディトは常にアンネの味方だった[148]。プフェファーとアンネは机の使用権などをめぐって対立し、プフェファーはアンネにマナーなどの説教をすることがあった。アンネは皮肉をこめてプフェファーを「閣下」などと呼んでいる。また彼女がプフェファーに付けた日記上の変名は「デュッセル(ドイツ語で間抜けの意)」である[149]。またファン・ペルス夫妻とフランク一家にもしばしば摩擦があった。
しかし対立ばかりではなく、楽しい時も多かった。隠れ家ではお祝いをするきっかけを見つけては頻繁にお祝いをしていた。毎週金曜日に行うユダヤ教の安息日の儀式、隠れ家メンバーの誕生日のお祝い、ハヌカー祭、クリスマス、新年、などであった。ヘルマン・ファン・ペルスはもともと陽気な人だったのでこうした席でよく冗談をいって人を笑わせていた。アンネの日記にもそうした楽しい思い出が多く描かれている。「夜にはみんなしてテーブルを囲み、頭がおかしくなるほど笑い転げました。私がドレヘルさんの奥さんの毛皮のカラーを持ち出して、パパの頭に巻きつけたからです。なんだか馬鹿に神々しくて見えて、ほんと、笑い死にするかと思いました。次にファン・ペルスおじさんもそれを真似をしましたけど、こちらはもっと滑稽でした。」「ペーターがおばさんのすごく細みのドレスを着て、帽子をかぶり、私が彼の服を着て、男の子の帽子を被ったら、大人たちはみんなお腹を抱えて笑い転げ、おかげで私たちまですっかり楽しくなりました。」[150]。
隠れ家で唯一のティーンエイジャーの男の子のペーターとは徐々に恋仲になっていき、アンネとペーターは屋根裏部屋で二人きりで長い時間を過ごすようになった。二人はキスもしている。日記からはアンネが性交にも関心を持ち始めていたことが窺える。ただペーターには物足りなさも感じていたようでしばしばペーターへの不満の記述もある。
様々な困難 [編集]
人に見つかってはならない隠れ家には厳しいルールがあった。昼間はできる限り静かに過ごすこと(事務所に人の出入りがあるから)、カーテンは閉めたままにすること、水を流す音が響かないようにすること、トイレの使用は早朝と事務所が閉まる夕方以降にすること、などである。食料はミープ・ヒースが店長がレジスタンス活動家の食料店から購入していた。食料は屋根裏部屋に貯蔵された。しかし食料の確保はどんどん難しくなり、少なくなっていった。ひもじさに耐えねばならなくなると隠れ家住民達の心がすさんで喧嘩になることも多かった。アンネも日記の中で一週間に一種類か二種類の食事しか食べられないことを嘆いている。医者にかかれないため、病気になると大変であった。1943年冬にはアンネはインフルエンザにかかり、隠れ家の大人たちが総がかりで必死に看病した。幸い熱は下がり、回復したが、悪性の伝染病に襲われた時にはひとたまりもなさそうであった。また夜には連合軍の空襲の恐怖にさらされることも多くなっていった。もし爆弾が落ちても助けは求められなかった。電力も制限されていき、ろうそくを使用して明かりの代わりにするようになった。また暖房の使用ができなくなると厚手のコートを重ねたり、ダンスや体操をして体を温めたりしていた。
どんなに絶望的な状況になっていってもアンネは最後まで希望を捨てなかった。1944年7月15日のアンネの日記には次のような記述がある。
自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと[151]。

– 1944年7月15日

この言葉はアンネ・フランクの代表的な言葉としてよく使用されている[152]。『アンネの日記』は、この後、7月21日に記述があり、その次の1944年8月1日火曜日を最後にして終わっている[153]。
逮捕 [編集]
1944年8月4日朝、プリンセンフラハト263番地の建物はいつも通りであった。隠れ家メンバーは読書や勉強、裁縫などに専念して音を立てないよう静かにしていた。表の建物の二階の事務所では、ヴィクトール・クーフレル、ミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、ベップ・フォスキュイルの四人が働いていた。また一階の倉庫では二人の従業員がスパイスを袋に詰める作業をしていた。
そんな中の午前10時半頃、プリンセンフラハト263番地の前に一台の車が止まった。中から出てきたのはゲシュタポの制服を着たカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と私服のオランダ警察官数名であった。ジルバーバウアーらはまず倉庫従業員の案内で二階事務所に踏み込み、四人に銃を突き付けると、「かくまっているユダヤ人を引き渡せ」と指示した。ジルバーバウアーは社長のクーフレルに銃を突き付けたまま隠れ家へ案内させた。本棚の隠し入口を見つけてジルバーバウアーたちが中に突入した。最初に発見されたのはエーディトで彼女はオットーの部屋のテーブルに座っていた。ファン・ペルス夫妻とフリッツ・プフェファーは四階の部屋にいるところを拘束された。アンネとマルゴーはアンネの部屋にいたところを拘束された。最後に発見されたのがペーターの部屋でここではオットーがペーターに英語を教えているところだった。隠れ家メンバーの8人は全員手をあげさせられて入り口に近い三階のオットー夫妻の部屋に集められた。誰も声を出さなかったが、マルゴーだけは声を上げずに泣いていた。ジルバーバウアーは真っ先に貴重品を提出させて押収した。ジルバーバウアーがカバンを逆さにして中身をぶちまけた際に中からはアンネの日記が床に落ちたが、アンネが何か言うことはなかった。ジルバーバウアーは武器の携帯の有無を調べた後、「五分で準備をしろ」と命じた。ジルバーバウアーはオットーが第一次世界大戦の際にドイツ帝国の将校だったことを知ると、態度が少し優しくなり、荷造りをしている隠れ家住人に「ゆっくりでいい」と指示し直している[154]。
クーフレルとクレイマンはジルバーバウアー達に何を聞かれても答えなかったため、この2人も連行されることとなった。外には警察のトラックが到着しており、10人ともこのトラックに乗せられ、アムステルダム南部のエーテルペ通りにあったゲシュタポとSDの本部へと出発していった[155][156][157]。
ゲシュタポは密告を受けて出動していた。この密告者が誰かについては今日に至るまで判明していない。倉庫係ヴィレム・ファン・マーレン、もしくは掃除婦レナ・ハルトホを疑う説もあるが、真相は不明である[158][159]。
ゲシュタポ・SD本部へ到着後、隠れ家メンバーは取り調べを受けた。取り調べでは他に潜伏しているユダヤ人について中心に聞かれたが、ずっと隠れ家生活をしていた8人が知るところではなかった。その日ひと晩はゲシュタポ・SD本部の監房で過ごすこととなった。翌日にはアムステルダムのベーテリングスハンスの拘置所に移され、ここで3日ほど過ごした。
ヴェステルボルク収容所 [編集]


ヴェステルボルク通過収容所の全景の模型
1944年8月8日に隠れ家のユダヤ人8人はアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ移送された。オットー・フランクの回想によれば、この移送中にアンネは列車の窓から一度も離れず、外の光景を眺めていたという。アンネは都市っ子で田舎にはほとんど興味がなかったというが、この時には窓外の田園風景にくぎ付けだったという[160][154][161]。
1944年8月8日午後遅くにヴェステルボルク収容所に到着した。フランク一家はじめ隠れ家メンバー8人は「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、政治犯として懲罰棟である第67号棟へ収容された。男性は丸刈り、女性は短髪と定められており、アンネも髪を切られたものと思われる。ヴェステルボルクではフランク一家はド・ヴィンテル一家(父マヌエル、母ローザ、娘ユーディー)と親しくなった。ユーディーはアンネと同い年だった。ド・ヴィンテル一家もユダヤ人であり、潜伏生活を送った後、発見されて逮捕されていた。
ヴェステルボルク収容所においてアンネ、マルゴー、エーディトは電池の分解作業に割り当てられていた。昼食はわずかなパンと水っぽいスープだけであった。ここでアンネたちは同じ作業を行っていたヤニ-とリーンチェのブリレスレイペル姉妹と知り合った。リーンチェは「アンネとマルゴーはいつもお母さんのそばにいました。『アンネの日記』ではアンネはお母さんを手厳しく批判していますが、ちょっとした反抗期だったんじゃないでしょうか。収容所ではお母さんの腕にしがみついていました。」と証言している[162]。1944年9月3日、ヴェステルボルク収容所の最後の移送列車がポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向けて出発することとなった。アンネたちはこの列車に乗せられることとなった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所 [編集]
1944年9月3日、隠れ家メンバー8人、ド・ヴィンテル一家、ヤニ-とリーンチェのブリレスレイペル姉妹はまとめてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に詰め込まれた。移送中のアンネは、マルゴー、ペーター、ユーディーと一緒に話をしたり、時々小窓によじのぼって外の光景を眺めていたという[163]。


アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のビルケナウ収容所
3日後、列車はビルケナウ強制収容所に到着した。到着と同時に男女が分けられた。アンネは、父オットーとはここで今生の別れとなった。さらにその後、SS医師団による働ける者と働けない者の選別が開始された。この移送でアウシュヴィッツへ送られてきた者1019人のうち549人が労働不能と判断されてガス室送りとなった。しかしアンネたち隠れ家メンバーは、全員労働可能と認定され、ガス室送りを免れた[164][165][166]。
女子供はビルケナウ収容所の中にある女子収容所へ入れられ、男性は3キロ離れた場所にあるアウシュヴィッツ強制収容所へ向けて歩かされた。アンネとマルゴーとエーディトは女子収容所の29号棟に入れられた。アウシュヴィッツでは男子も女子も丸刈りにしていたのでアンネも短髪から丸刈りにされた。またアウシュヴィッツでは囚人の左腕に囚人ナンバーの刺青を入れていた。アンネの左腕に入れられた正確な囚人番号は分かっていない。A25060からA25271までの間のいずれかの番号であった[164]。
ビルケナウでのアンネはエーディトとマルゴー、ローザとユーディーのド・ヴィンテル母子などと固まって暮らしていたという。まもなくアンネやマルゴーはシラミやダニに食われて傷口が化膿した。エーディトは娘たちに献身的につくし、自分に支給されたパンも娘たちに分け与えていた。
10月30日にベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送る者の選別が行われた。ローザ・ド・ヴィンテルによると選別を行ったのはヨーゼフ・メンゲレ親衛隊大尉であったという。この選別でアンネとマルゴーは母エーディトと切り離されてベルゲン・ベルゼンへ送られることとなった。母エーディトとはここで最期の別れとなった。ローザはこの時のアンネを次のように回想している。「15歳と18歳、痩せこけて、裸でしたが、それでも堂々として選別デスクに向かいました。アンネはマルゴーを励まし、マルゴーは背筋をしっかり伸ばして、ライトの中を進みました。姉妹二人、裸で、丸坊主という姿でした。ふとアンネの目がこちらに向けられました。曇りのない目で、まっすぐこちらに視線を向けて、まっすぐ立って。」[167]。
ベルゲン・ベルゼン収容所での死 [編集]


ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地の墓碑
アンネたちのベルゲン・ベルゼンへの移送は4日に及び、その間、食料はほとんど与えられず、アンネたちはますます弱っていった。 到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は恐ろしく不潔な収容所で病が大流行していた。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が続出する収容所だった。この収容所でアンネはチフスに罹患して命を落とすこととなる。
この収容所でアンネはリーンチェとヤニーのブリレスレイペル姉妹と再会したという。ブリレスレイペル姉妹はフランク姉妹より10歳以上年長だったが、同じアムステルダム出身であり、親しくなって一緒に過ごすようになったという。リーンチェは後にこの時のアンネについて次のような証言をしている。「アンネはよく就寝後に話を聞かせてくれた。姉のマルゴーも同様だった。馬鹿げた小話だの、ジョークだの、いつも四人(アンネ、マルゴー、リーンチェ、ヤニ-)で交代で話し役を受け持った。たいがいは食べ物の話だった。アムステルダムのアメリカン・ホテルに行き、豪華なディナーを食べるという話をしていたところ、いきなりアンネが泣き出したことがあった。もう二度とあの街へ戻ることはできないだろうと考えたのだろう。みんなで空想のメニューをこしらえ、すばらしい御馳走を考え出した。そしてアンネはいつも言うのだった。『私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある』と。」[168]。食事の話ばかりになったのは食糧がますます減らされたためだった。リーンチェによるとアンネの顔は痩せこけて、まるで目だけになってしまったようだったという[169]。
1944年11月終わりにはアウグステ・ファン・ペルスがベルゲン・ベルゼンに移送されてきてアンネたちと再会した。アウグステは別の区画にアンネの親友ハンネがいたことをアンネに告げた。1945年初めには有刺鉄線越しだがアンネはハンネと再会できたという。二人は互いの無事を喜び涙を流しあったという。アンネはこの時ようやく実はスイスに亡命したのではなくて隠れ家で隠れていたことをハンネに打ち明けた。また両親とは離れ離れになったことを告げ、「私にはもう両親がいないの」と涙ながらに語っていたという。その後も三、四回あったというが、二月末ごろからアンネの姿を見なくなったという[170]。
しかしこのころのアンネの詳細については、このような数少ない目撃者たちの断片的な証言を残すのみであり、はっきりとはしていない。体力の衰えた姉妹はやがてチフスにかかり、先にマルゴが、二、三日遅れてアンネが息を引き取ったとされている。オランダ赤十字は1945年3月31日を死亡日としているが、これは特定されたものではなく、生き残った者の証言などにより、それよりも早い2月の終わりか3月の始めころに亡くなったものと推測される[171]。
死と絶望が日常的なアウシュヴィッツ収容所内でもベルゲン・ベルゼン収容所へ移送される時も命を落とさなかったのは、最後まで生きる希望を捨てない彼女たちの前向きな姿勢があったからである。この姿勢はアンネの日記にも表れており高く評価されている。
戦後 [編集]


1955年に出版されたスペイン語版の『Las habitaciones de atrás(後ろの家)』の初版
隠れ家の住人はオットー・フランクを除いて全員が終戦を迎えることなく強制収容所の中で死亡した。アンネとマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所、母エーディト・フランクはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ペーター・ファン・ペルスはマウトハウゼン強制収容所、ヘルマン・ファン・ペルスはアウシュヴィッツ強制収容所、フリッツ・プフェファーはノイエンガンメ強制収容所でそれぞれ死亡している。アウグステ・ファン・ペルスの死亡場所は不明である。
オットー・フランクは、解放後にアムステルダムに戻った。日記を保存していたミープ・ヒースから娘アンネの残した日記などの文書を遺品として渡された。この文書はオットーによってタイプし直され、関係者の間に私家版としてごく少数の者に配られた。やがてこれが評判を呼び、1947年に『後ろの家』(nl:Het Achterhuis)というタイトルでオランダ語の初版が出版された[172]。
売れ行きは非常に好調で、ほどなく各国語に翻訳された。1950年にはドイツ語版とフランス語版が出版され、1952年5月に英語版が出版された[173]。日本語版は昭和27年(1952年)に『光ほのかに アンネの日記』というタイトルで文藝春秋から出版されたのが最初である[2]。イギリスではあまり売れなかったが、アメリカ・ドイツ・フランス・日本では発売とともに好調な売れ行きを示した[174]。イギリスでは1954年にペーパーバック版になった後に売れるようになった[175]。
1955年10月5日に戯曲『アンネの日記』がニューヨークの劇場で初演された。主演のスーザン・ストラスバーグの友人マリリン・モンローが観劇している[176]。同演劇は1956年度のピューリッツァー賞とトニー賞を獲得した[177]。


ドイツ・ルートヴィヒスハーフェンの「アンネ・フランク実科学校」。
1956年からヨーロッパでも上演された。特にドイツで重く受け止められた。100万人のドイツ人が観劇し、その効果でドイツでの「アンネの日記」の売り上げが急上昇し、ドイツ各地にアンネの名を冠した青少年団体や学校や通りが出現するようになった[178]。オランダでは1956年11月27日にオランダ王室の臨席のもとで初上演された。そのオープニング・セレモニーにオットー・フランク、ミープ・ヒース、ヤン・ヒース、ベップ・フォスキュイル、ジャクリーヌ・ファン・マールセン(ジャック)らが出席している[179]。


オランダ・アムステルダムのメルウェーデプレインに建つアンネ・フランク像(2005年)
1957年にはアメリカの20世紀フォックス社が映画『アンネの日記』(en)の撮影を開始した。大戦中にダッハウ強制収容所を解放したアメリカ軍部隊の兵士だったジョージ・スティーヴンスが監督を務めた。この映画は1959年4月16日にアムステルダムでユリアナ女王やベアトリクス王女臨席のもとに初公開された[180]。
隠れ家のあるアムステルダム・プリンセンフラハト263番地を含めた地域一帯がブローカーに買収され、さらに1957年5月には再開発予定地に組み込まれて、アンネの隠れ家のあった建物が取り壊されそうになった[172][181]。取り壊しに反対する市民運動が巻き起こり、ユリアナ女王やアムステルダム市長も運動に参加し、海外からも寄付金が寄せられた[172]。建物を所有していた不動産会社ベルクハウス社[182]は市民の声に負け、「アンネ・フランクに捧げる」として隠れ家の建物をアムステルダム市に寄付した。アムステルダム市はアンネの隠れ家の建物の付近を「歴史地区」に指定し、保護することを市民に約束した[172]。建物の保存と一般公開を目的として「アンネ・フランク財団」が立ち上げられ、1960年5月に同財団が建物の所有権を買い取り、博物館「アンネ・フランクの家」として一般公開を行っている[183]。
1980年8月19日にオットー・フランクはスイス・バーゼルの自宅で死去した。オットーの遺言でアンネの書いた物はすべてオランダ政府に遺贈された[184]。オランダ国立戦時資料研究所が1980年11月にアンネの日記の原稿を受け取っている[184]。
アンネ・フランクの将来の夢は著名な作家になることであったが、多くの芸術家たちと同様、死して後その名が知られるようになった。2004年10月3日、オランダの司法省は、ドイツからの亡命と同時に無国籍となり、国籍を持たないまま、この世を去っていった彼女にオランダの市民権を与えるべきという要望に、死後の市民権の付与は不可能という拒否解答を出した。彼女は、政治、文化、経済などでのオランダを代表する人物の中に以前から数えられているが、国籍、市民権は
【2010/11/07 16:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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