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【2024/11/28 07:39 】 |
踊り506
ドイツ軍占領下での生活 [編集]
アドルフ・ヒトラーは1940年5月25日にオランダの国家弁務官(総督・民政長官とも訳される)に親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトを任じた。ザイス=インクヴァルトは占領当初「穏健」な態度をとり、オランダ社会に急激な変化をもたらさないよう気にかけた。オランダ政府閣僚はすでに国外逃亡していたが、事務次官以下官僚機構はそのままオランダに残っており、オランダの行政機能はこれまでとほとんど変りなく機能した[80]。またザイス=インクヴァルトは、反ユダヤ主義についても即時にオランダに持ち込むことはしなかった。そのため占領後もしばらくの間は、アンネの生活に大きな変化はなかった。ハンネやサンネとも今まで通り遊んでいた[81]。アンネはオランダ降伏には怒っていたし、同級生がドイツ人(モッフィー)の悪口を言っていれば一緒になって悪口を言ったけれど、この頃にはまだ将来への強い不安までは感じてはいなかったという[82]。
1940年5月28日にはベルギーがドイツに降伏、さらに6月22日にはフランスもドイツに降伏した。ドイツの情勢が安定してきたことで、ザイス=インクヴァルトは徐々に「穏健」の仮面を脱ぎ捨ててユダヤ人迫害を開始するようになった。まず1940年7月にザイス・インクヴァルトよりオランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録せよとの命令が下った[83][84]。さらに8月には「1933年1月1日以降にドイツからオランダへ移住したユダヤ人はその旨を登録せよ」との命令が出された。フランク一家はこれらの命令に従って登録を行っている[85]。
1940年10月22日には「ユダヤ人が経営者、若しくは共同経営者である企業、又は資本金の25%以上がユダヤ人の所有になっている企業はその旨を届け出よ。」との条例が公布された[86][87][88]。オットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープ・ザントルーシッツの愛人。二人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ラ・サンテーズ」を設立した。この企業はいざという時にペクタコン商会の営業を引き継げるようになっていた[89][90]。
1941年1月9日以降にはオランダ映画館主同盟がユダヤ人の映画館入場を拒否したためユダヤ人は映画館に入れなくなった[4]。アンネはハリウッドの有名なスターの写真を切り抜いては台紙に張ってコレクションするような映画好きの女の子だったのでこれは大事件だった。結局、フランク一家は自前で映写機・スクリーン・フィルムを用意して自宅で上映会を行うようになった[91]。
1941年末にはドイツ政府はオランダの反ユダヤ主義世論を盛り上げるため、反ユダヤ主義宣伝映画『ユダヤ人ジュース』をオランダ全国で上映させた。同じ頃「オランダ・ナチス」と通称される「国家社会主義運動」(nl:Nationaal-Socialistische Beweging,略称NSB)の「国防部隊」(nl:Weerbaarheidsafdeling,略称WA)隊員のオランダ人によるユダヤ人への暴力テロ活動が増加した。その際にWA隊員のオランダ人が一人死亡した事件でユダヤ人の迫害が強まった[92][93]。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令により1941年2月22日から23日にかけてアムステルダムで最初のユダヤ人狩りが行われ、ユダヤ人400人が捕まった。彼らはマウトハウゼン強制収容所へ移送された。このうち戦後に生きてオランダへ帰れたのは2人だけだった[94][88][95][96][# 4]。
1941年3月12日に「経済の非ユダヤ化条例」が出されたのを機にオットーはペクタコン商会の株式をクレイマンに譲渡して名目上所有者から離れた。またヤン・ヒースの協力を経て、社名を「ヒース商会」に変更した。しかし実際の企業運営は引き続きオットーが中心になって行っていた[97]。
1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止された[98][99]。アンネはプールに行けなくなったことを嘆き、「日焼けしようにも、あまり方法はありません。プールに入れないからです。残念ですけど、どうしようもありません。」と1941年6月末にスイスにいる父方の祖母アリーセに宛てた手紙で書いている[99][100]。
1941年8月29日にはユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布された[101]。アンネはモンテソーリ・スクールへ通えなくなり、マルゴーともどもユダヤ人中学校へ転校することとなった。ユダヤ人学校でアンネは新たな親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(愛称ジャック)(Jacqueline van Maarsen)[# 5]と出合った。アンネとジャックは家が近いにもかかわらず、しょっちゅうお互いの家に泊まり合っていた。アンネはジャックの家に行くのに大した荷物もないのにスーツケースを持っていった。スーツケースがないと旅行気分が出ないからという[105]。
1942年1月29日には同居していた祖母ローザ・ホーレンダーが死去している。おばあちゃんっ子のアンネには衝撃だった。アンネは後に書く日記のなかでも祖母の死について触れ、「おばあちゃんのことは、いまでもこの胸に焼き付いています。私が今でもどれだけおばあちゃんを愛しているか、きっと誰も想像がつかないと思います。」と書いている。アンネは思春期になるにつれ、母エーディトとの摩擦が増えていた。アンネとエーディトの親子喧嘩の仲裁役になれるのはアンネの祖母でエーディトの母であるローザだけだった。その事もアンネが祖母好きな理由であったという[106]。


オランダのユダヤ人が着用を義務付けられたダビデの星。
1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーにおいてユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務付けられた。これは先にポーランドやドイツで実施されていたものが導入された物であった。オランダのダビデの星には中央に「Jood」(ユダヤ人)の文字が入っていた[107][108][109]。1942年6月22日にはオランダの親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊中将より「ユダヤ人は所有している自転車を48時間以内に当局に提出せよ」との命令が下された。フランク一家はこの命令に従わず、マルゴーの自転車を隠し持つことにした。アンネも専用の自転車を持っていたが、彼女の自転車は復活祭の休み中に何者かに盗まれてしまっていたため、この頃にはすでに所持していなかった[110]。アンネにとって厳しかったのは1942年6月30日のユダヤ人外出制限命令だった。ユダヤ人は夜8時から朝6時までの間の外出を禁止され、また非ユダヤ人を訪問したり、あるいは訪問を受けることを禁止された。ユダヤ人の子供にとって友達と遊ぶのに大きな影響がある命令だった[111]。
1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった[112]。アンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし[# 6]、その日、最初の日記をつけている。後世に「アンネの日記」として世界的に知られることになる日記の執筆の始まりである。なおアンネは日記帳を「キティー」と名付け、この「キティー」に手紙を書くという設定にしていた。なぜキティーだったかははっきりとしないが、アンネの友達の一人にケーテ・エヘイェディ(愛称キティー)(Käthe "Kitty" Egyedi)という女の子がおり、この子から来ているのではないともいわれる[114]。日記の最初はこのように記されている。
あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね[115][116]。

– 1942年6月12日

1942年6月終わり頃、アンネは3歳年長のヘルムート・シルベルベルフ(愛称ヘロー)(Helmuth "Hello" Silberberg)[# 7]という男の子と付き合い始めていた[123]。ヘローはこの時のことを後にこう語っている。「アンネは魅力的な女の子でした。いきいきとしていて機転がきいて、人を笑わせたり、楽しませたりするのが大好きでした。はっきりと記憶に残っているのはいつも大きな椅子に座り、あごに両手を添えてじっと私のことを見ているアンネの姿です。(略)たぶん私はアンネに恋していたのでしょう。ひょっとすると彼女も同じ気持ちだったかもしれません。」[124]。
1942年6月末には夏休み前の学期末試験の通知書がかえってきた。マルゴーは「いつも通りの素晴らしい成績」で、アンネも日記上でしぶしぶ賛辞を呈している[125][126]。一方アンネは予想よりは良かったが、数学の成績が低く、夏休み後の9月に追試を受けることを申し渡されてしまった[125][126]。しかしアンネが再び学校に通える日はもう来なかった。
隠れ家の準備 [編集]


プリンセンフラハト通り263番地にあるオットーの会社の建物。この建物の裏につながって存在する「後ろ家」の三階と四階部分に隠れ家があった。現在アンネ・フランク財団によって管理されており、アムステルダムの観光名所の一つである。
ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになった。ドイツ側は、連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いの下に強制労働に従事しているとしていた。しかしイギリスのBBC放送などはユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されていると報道していた。いずれにせよ明白であるのは、経済の「アーリア化」によりユダヤ人失業者は増大しており(オットー・フランクも書類上は失業者であった)、ユダヤ人狩りで連れていかれる人数は日増しに増え、その対象はユダヤ人ならば誰でも手当たり次第という具合になっていたことである[127]。
危険が迫ってきていると判断したオットー・フランクは、密かに安全な場所へ移り住む準備に取りかかった。1942年1月20日にはオットーはオランダの移民局にイギリスへの移住希望を申請した。ヘルマン・ファン・ペルス一家もアメリカへの移住希望申請を出した。しかしどちらも移住できる見込みはなさそうであった[128]。
移住が不可能と悟り、1942年4月からオットーとヘルマン・ファン・ペルスは、アムステルダム・ヨルダーン地区(nl:Jordaan)のプリンセンフラハト通り263番地(nl:Prinsengracht 263)にあるオットーの会社オペクタ商会とペクタコン商会(ヒース商会)が入っている建物を隠れ家に改築して身を隠す準備を進めた。1940年12月にオットーの会社はこの建物に移動していた[129][130]。四階建ての建物で一階が倉庫、二階が事務所、三階と四階(更にその上に屋根裏部屋もあり)も倉庫として使われていた。この建物の後ろには離れ家(運河に面したアムステルダムの建物にはよくある形状で「後ろの家」(Achterhuis、アハターハウス)と呼ぶ。定冠詞を付けた"Het Achterhuis"はオランダ語版アンネの日記のタイトルとなった)がついており、離れ家の二階がオットーのオフィスと従業員用のキッチンとなった。三階と四階は放置されていた。ここの三階と四階と屋根裏部屋を改築して隠れ家を作った。
ミープ・ヒース(ミープ・ザントルーシッツ。1941年7月にヤン・ヒースと結婚してヒース姓になった)、ヨハンネス・クレイマン、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルら会社の非ユダヤ人社員たちが食料や日用品を隠れ家に運び込む役を引き受けてくれた。オットーは、ドイツ軍に見つからぬよう少しずつ家具などを隠れ家に入れていった。この間、アンネとマルゴーには隠れ家のことは一切知らされていなかった。少しでも娘たちに自由な時間を楽しませたいというオットーとエーディトの考えからだった。ユダヤ人の子供はすでに自由に遊ぶことはできなくなっていたが、それでもアンネは、ハンネ、サンネ、ジャック達とともにイルセ・バーハネルという子の家に集まって卓球をして遊んだり、卓球の後はユダヤ人でもはいれるアイスクリーム屋へ行って男の子達と会って仲良くしたりして楽しんでいた[131]。
1942年7月5日、ナチス親衛隊(SS)からマルゴーに対して7月6日にユダヤ人移民センターへの出頭を命じる召集命令通知がフランク家に届いた。これはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令であった。召集後はドイツ国内の労働収容所へ送られ、労働に従事させられることとなっていた。通知には持って行ける衣類とシーツ、食器類についてのリストまで付属していた[132]。オットーの帰宅後、すぐにヘルマン・ファン・ペルスやミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマンなどと連絡をとり、対策を話し合った。召集命令に応じるのは危険と判断したオットー達は、すぐに潜伏生活を始めることとした。アンネとマルゴーも荷造りの準備を始めた。
7月6日早朝、フランク一家は住んでいたメルウェーデプレインのアパートを出ると、雨の中を歩いてプリンセンフラハト通り263番地まで向かい、隠れ家に入った[133]。アパートを出る際にオットーは二階の住民にあてて手紙を置き遺した。そこでスイスへ逃れることをほのめかし、アンネの飼っていた猫「モールチェ」をお願いする旨を書いている[134]。
フランク一家の突然の失踪は近所の人たちにも知られたが、召集命令が来たユダヤ人は次々と逃げ出していたのでとりたてて不思議には思われなかったようである。すぐに「フランク一家はスイスへ逃げたらしい」という噂が流れた。アンネの友達のハンネやジャックもアンネを探しに来たが、家はもぬけのからになっていた。彼女たちはとりあえずアンネとの思い出の品を探し、ジャックはアンネが水泳競技でもらったメダルを見つけて持って帰っている[135]。
隠れ家生活 [編集]


隠れ家への入口の本棚
プリンセンフラハト通り263番地の「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から三階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。秘密の入口を通るとすぐ右手に四階への階段があった。階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。その右側にアンネ・フランクとマルゴーの部屋があった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。四階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、ここはファン・ペルス一家の部屋となった。また四階にはファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしごがあった。屋根裏部屋の部屋からは西教会の時計塔を眺めることができた[136][137]。隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エディート、長女マルゴー、次女アンネ)、ヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、そして1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居していた[138]。
隠れ家での人間模様 [編集]
隠れ家生活に入ってからアンネと母エーディトは対立することが多くなった。母から自立したいアンネとアンネを心配するエーディトがすれ違っていたせいであった[139]。オットーがよく二人の間の仲裁に入っていた。日記上でも母親を批判する記述は多い。「とにかくママが我慢なりません。ママの前では、自分を抑えて辛抱しなくちゃなりません。そうしないとママの横っ面をひっぱたいてしまいかねませんから。どうしてこんなにまでママが嫌いになってしまったのか。自分でも分かりません」と書いている[140]。しかしやがてアンネは母を傷つけていることを反省して、徐々に攻撃の手を緩めるようになる[141]。
またアンネは成績優秀で控えめな性格の姉マルゴーをやっかむ事が多い。母エーディトがマルゴーを高く評価し、アンネはいつもマルゴーと比べられてお姉さんを見習うように言われるせいだった。アンネはこう書いている。「ママは何かと言うとマルゴーの味方をします。それは誰の目にも明らかです。いつだって二人でかばい合っています。もうそれは慣れっこなので、ママがごちゃごちゃお説教をしても、マルゴーが怒ってきても何とも思いません。もちろん二人のことは愛していますが、それは私のお母さんであり、お姉さんだからにすぎません。一個の人間としては二人ともくたばれと言いたいです。」[142]。しかし後に親への不満を共通の話題にして姉妹仲はよくなった。「特別なことと言えば、マルゴーと私が二人揃って両親が鼻につき始めてることぐらいです。誤解しないでほしいんですけど、私は今でも以前と変わらずお父さんを愛してますし、マルゴーは両親どちらも愛しています。でも私たちぐらいの年になると、誰でもちょっとは物事を自分で決めたくなります。(略)マルゴーも悟ったようです。両親より同性の友達の方が、自分自身について気楽に話せるってことが。」「(マルゴーとは)本当の親友になりかけています。もう私のことを子供扱いして、相手にしてくれないなんて事もありません。」と書いている[143]。
家族の中でアンネが一番好きだったのは父オットーだった。アンネは1942年11月7日の日記には「パパだけが私の尊敬できる人です。世界中にパパ以外に愛する人はいません。」と書いている[144]。アンネはオットーにエーディトへの不満を漏らす事があったが、オットーはアンネに拒絶されて苦しんでいるエーディトを知っていたので必ずしもその言い分を認めなかった。「パパは、私が時々ママについて、鬱憤をぶちまける必要があることを分かってくれません。そのことを話題にしたがらないんです。話がママの欠点について触れそうになると、すぐにその話題を避けようとします。」とアンネは書いている[145]。この件についてオットーは後年、「妻を苦しませたくありませんでしたが、アンネが母に対して生意気で意地悪な態度を取った時、アンネをたしなめるのは、しばしば容易なことではありませんでした。」と述べている[146][147]。
アンネの妥協の無さ、臆することのない舌鋒は、ファン・ペルス夫妻やフリッツ・プフェファーも立腹させることが多かった。彼らは「アンネの躾がなって無い」とよく、フランク夫妻に忠告した。しかしこのような時には母エーディトは常にアンネの味方だった[148]。プフェファーとアンネは机の使用権などをめぐって対立し、プフェファーはアンネにマナーなどの説教をすることがあった。アンネは皮肉をこめてプフェファーを「閣下」などと呼んでいる。また彼女がプフェファーに付けた日記上の変名は「デュッセル(ドイツ語で間抜けの意)」である[149]。またファン・ペルス夫妻とフランク一家にもしばしば摩擦があった。
しかし対立ばかりではなく、楽しい時も多かった。隠れ家ではお祝いをするきっかけを見つけては頻繁にお祝いをしていた。毎週金曜日に行うユダヤ教の安息日の儀式、隠れ家メンバーの誕生日のお祝い、ハヌカー祭、クリスマス、新年、などであった。ヘルマン・ファン・ペルスはもともと陽気な人だったのでこうした席でよく冗談をいって人を笑わせていた。アンネの日記にもそうした楽しい思い出が多く描かれている。「夜にはみんなしてテーブルを囲み、頭がおかしくなるほど笑い転げました。私がドレヘルさんの奥さんの毛皮のカラーを持ち出して、パパの頭に巻きつけたからです。なんだか馬鹿に神々しくて見えて、ほんと、笑い死にするかと思いました。次にファン・ペルスおじさんもそれを真似をしましたけど、こちらはもっと滑稽でした。」「ペーターがおばさんのすごく細みのドレスを着て、帽子をかぶり、私が彼の服を着て、男の子の帽子を被ったら、大人たちはみんなお腹を抱えて笑い転げ、おかげで私たちまですっかり楽しくなりました。」[150]。
隠れ家で唯一のティーンエイジャーの男の子のペーターとは徐々に恋仲になっていき、アンネとペーターは屋根裏部屋で二人きりで長い時間を過ごすようになった。二人はキスもしている。日記からはアンネが性交にも関心を持ち始めていたことが窺える。ただペーターには物足りなさも感じていたようでしばしばペーターへの不満の記述もある。
様々な困難 [編集]
人に見つかってはならない隠れ家には厳しいルールがあった。昼間はできる限り静かに過ごすこと(事務所に人の出入りがあるから)、カーテンは閉めたままにすること、水を流す音が響かないようにすること、トイレの使用は早朝と事務所が閉まる夕方以降にすること、などである。食料はミープ・ヒースが店長がレジスタンス活動家の食料店から購入していた。食料は屋根裏部屋に貯蔵された。しかし食料の確保はどんどん難しくなり、少なくなっていった。ひもじさに耐えねばならなくなると隠れ家住民達の心がすさんで喧嘩になることも多かった。アンネも日記の中で一週間に一種類か二種類の食事しか食べられないことを嘆いている。医者にかかれないため、病気になると大変であった。1943年冬にはアンネはインフルエンザにかかり、隠れ家の大人たちが総がかりで必死に看病した。幸い熱は下がり、回復したが、悪性の伝染病に襲われた時にはひとたまりもなさそうであった。また夜には連合軍の空襲の恐怖にさらされることも多くなっていった。もし爆弾が落ちても助けは求められなかった。電力も制限されていき、ろうそくを使用して明かりの代わりにするようになった。また暖房の使用ができなくなると厚手のコートを重ねたり、ダンスや体操をして体を温めたりしていた。
どんなに絶望的な状況になっていってもアンネは最後まで希望を捨てなかった。1944年7月15日のアンネの日記には次のような記述がある。
自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと[151]。

– 1944年7月15日

この言葉はアンネ・フランクの代表的な言葉としてよく使用されている[152]。『アンネの日記』は、この後、7月21日に記述があり、その次の1944年8月1日火曜日を最後にして終わっている[153]。
逮捕 [編集]
1944年8月4日朝、プリンセンフラハト263番地の建物はいつも通りであった。隠れ家メンバーは読書や勉強、裁縫などに専念して音を立てないよう静かにしていた。表の建物の二階の事務所では、ヴィクトール・クーフレル、ミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、ベップ・フォスキュイルの四人が働いていた。また一階の倉庫では二人の従業員がスパイスを袋に詰める作業をしていた。
そんな中の午前10時半頃、プリンセンフラハト263番地の前に一台の車が止まった。中から出てきたのはゲシュタポの制服を着たカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と私服のオランダ警察官数名であった。ジルバーバウアーらはまず倉庫従業員の案内で二階事務所に踏み込み、四人に銃を突き付けると、「かくまっているユダヤ人を引き渡せ」と指示した。ジルバーバウアーは社長のクーフレルに銃を突き付けたまま隠れ家へ案内させた。本棚の隠し入口を見つけてジルバーバウアーたちが中に突入した。最初に発見されたのはエーディトで彼女はオットーの部屋のテーブルに座っていた。ファン・ペルス夫妻とフリッツ・プフェファーは四階の部屋にいるところを拘束された。アンネとマルゴーはアンネの部屋にいたところを拘束された。最後に発見されたのがペーターの部屋でここではオットーがペーターに英語を教えているところだった。隠れ家メンバーの8人は全員手をあげさせられて入り口に近い三階のオットー夫妻の部屋に集められた。誰も声を出さなかったが、マルゴーだけは声を上げずに泣いていた。ジルバーバウアーは真っ先に貴重品を提出させて押収した。ジルバーバウアーがカバンを逆さにして中身をぶちまけた際に中からはアンネの日記が床に落ちたが、アンネが何か言うことはなかった。ジルバーバウアーは武器の携帯の有無を調べた後、「五分で準備をしろ」と命じた。ジルバーバウアーはオットーが第一次世界大戦の際にドイツ帝国の将校だったことを知ると、態度が少し優しくなり、荷造りをしている隠れ家住人に「ゆっくりでいい」と指示し直している[154]。
クーフレルとクレイマンはジルバーバウアー達に何を聞かれても答えなかったため、この2人も連行されることとなった。外には警察のトラックが到着しており、10人ともこのトラックに乗せられ、アムステルダム南部のエーテルペ通りにあったゲシュタポとSDの本部へと出発していった[155][156][157]。
ゲシュタポは密告を受けて出動していた。この密告者が誰かについては今日に至るまで判明していない。倉庫係ヴィレム・ファン・マーレン、もしくは掃除婦レナ・ハルトホを疑う説もあるが、真相は不明である[158][159]。
ゲシュタポ・SD本部へ到着後、隠れ家メンバーは取り調べを受けた。取り調べでは他に潜伏しているユダヤ人について中心に聞かれたが、ずっと隠れ家生活をしていた8人が知るところではなかった。その日ひと晩はゲシュタポ・SD本部の監房で過ごすこととなった。翌日にはアムステルダムのベーテリングスハンスの拘置所に移され、ここで3日ほど過ごした。
ヴェステルボルク収容所 [編集]


ヴェステルボルク通過収容所の全景の模型
1944年8月8日に隠れ家のユダヤ人8人はアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ移送された。オットー・フランクの回想によれば、この移送中にアンネは列車の窓から一度も離れず、外の光景を眺めていたという。アンネは都市っ子で田舎にはほとんど興味がなかったというが、この時には窓外の田園風景にくぎ付けだったという[160][154][161]。
1944年8月8日午後遅くにヴェステルボルク収容所に到着した。フランク一家はじめ隠れ家メンバー8人は「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、政治犯として懲罰棟である第67号棟へ収容された。男性は丸刈り、女性は短髪と定められており、アンネも髪を切られたものと思われる。ヴェステルボルクではフランク一家はド・ヴィンテル一家(父マヌエル、母ローザ、娘ユーディー)と親しくなった。ユーディーはアンネと同い年だった。ド・ヴィンテル一家もユダヤ人であり、潜伏生活を送った後、発見されて逮捕されていた。
ヴェステルボルク収容所においてアンネ、マルゴー、エーディトは電池の分解作業に割り当てられていた。昼食はわずかなパンと水っぽいスープだけであった。ここでアンネたちは同じ作業を行っていたヤニ-とリーンチェのブリレスレイペル姉妹と知り合った。リーンチェは「アンネとマルゴーはいつもお母さんのそばにいました。『アンネの日記』ではアンネはお母さんを手厳しく批判していますが、ちょっとした反抗期だったんじゃないでしょうか。収容所ではお母さんの腕にしがみついていました。」と証言している[162]。1944年9月3日、ヴェステルボルク収容所の最後の移送列車がポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向けて出発することとなった。アンネたちはこの列車に乗せられることとなった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所 [編集]
1944年9月3日、隠れ家メンバー8人、ド・ヴィンテル一家、ヤニ-とリーンチェのブリレスレイペル姉妹はまとめてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に詰め込まれた。移送中のアンネは、マルゴー、ペーター、ユーディーと一緒に話をしたり、時々小窓によじのぼって外の光景を眺めていたという[163]。


アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のビルケナウ収容所
3日後、列車はビルケナウ強制収容所に到着した。到着と同時に男女が分けられた。アンネは、父オットーとはここで今生の別れとなった。さらにその後、SS医師団による働ける者と働けない者の選別が開始された。この移送でアウシュヴィッツへ送られてきた者1019人のうち549人が労働不能と判断されてガス室送りとなった。しかしアンネたち隠れ家メンバーは、全員労働可能と認定され、ガス室送りを免れた[164][165][166]。
女子供はビルケナウ収容所の中にある女子収容所へ入れられ、男性は3キロ離れた場所にあるアウシュヴィッツ強制収容所へ向けて歩かされた。アンネとマルゴーとエーディトは女子収容所の29号棟に入れられた。アウシュヴィッツでは男子も女子も丸刈りにしていたのでアンネも短髪から丸刈りにされた。またアウシュヴィッツでは囚人の左腕に囚人ナンバーの刺青を入れていた。アンネの左腕に入れられた正確な囚人番号は分かっていない。A25060からA25271までの間のいずれかの番号であった[164]。
ビルケナウでのアンネはエーディトとマルゴー、ローザとユーディーのド・ヴィンテル母子などと固まって暮らしていたという。まもなくアンネやマルゴーはシラミやダニに食われて傷口が化膿した。エーディトは娘たちに献身的につくし、自分に支給されたパンも娘たちに分け与えていた。
10月30日にベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送る者の選別が行われた。ローザ・ド・ヴィンテルによると選別を行ったのはヨーゼフ・メンゲレ親衛隊大尉であったという。この選別でアンネとマルゴーは母エーディトと切り離されてベルゲン・ベルゼンへ送られることとなった。母エーディトとはここで最期の別れとなった。ローザはこの時のアンネを次のように回想している。「15歳と18歳、痩せこけて、裸でしたが、それでも堂々として選別デスクに向かいました。アンネはマルゴーを励まし、マルゴーは背筋をしっかり伸ばして、ライトの中を進みました。姉妹二人、裸で、丸坊主という姿でした。ふとアンネの目がこちらに向けられました。曇りのない目で、まっすぐこちらに視線を向けて、まっすぐ立って。」[167]。
ベルゲン・ベルゼン収容所での死 [編集]


ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地の墓碑
アンネたちのベルゲン・ベルゼンへの移送は4日に及び、その間、食料はほとんど与えられず、アンネたちはますます弱っていった。 到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は恐ろしく不潔な収容所で病が大流行していた。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が続出する収容所だった。この収容所でアンネはチフスに罹患して命を落とすこととなる。
この収容所でアンネはリーンチェとヤニーのブリレスレイペル姉妹と再会したという。ブリレスレイペル姉妹はフランク姉妹より10歳以上年長だったが、同じアムステルダム出身であり、親しくなって一緒に過ごすようになったという。リーンチェは後にこの時のアンネについて次のような証言をしている。「アンネはよく就寝後に話を聞かせてくれた。姉のマルゴーも同様だった。馬鹿げた小話だの、ジョークだの、いつも四人(アンネ、マルゴー、リーンチェ、ヤニ-)で交代で話し役を受け持った。たいがいは食べ物の話だった。アムステルダムのアメリカン・ホテルに行き、豪華なディナーを食べるという話をしていたところ、いきなりアンネが泣き出したことがあった。もう二度とあの街へ戻ることはできないだろうと考えたのだろう。みんなで空想のメニューをこしらえ、すばらしい御馳走を考え出した。そしてアンネはいつも言うのだった。『私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある』と。」[168]。食事の話ばかりになったのは食糧がますます減らされたためだった。リーンチェによるとアンネの顔は痩せこけて、まるで目だけになってしまったようだったという[169]。
1944年11月終わりにはアウグステ・ファン・ペルスがベルゲン・ベルゼンに移送されてきてアンネたちと再会した。アウグステは別の区画にアンネの親友ハンネがいたことをアンネに告げた。1945年初めには有刺鉄線越しだがアンネはハンネと再会できたという。二人は互いの無事を喜び涙を流しあったという。アンネはこの時ようやく実はスイスに亡命したのではなくて隠れ家で隠れていたことをハンネに打ち明けた。また両親とは離れ離れになったことを告げ、「私にはもう両親がいないの」と涙ながらに語っていたという。その後も三、四回あったというが、二月末ごろからアンネの姿を見なくなったという[170]。
しかしこのころのアンネの詳細については、このような数少ない目撃者たちの断片的な証言を残すのみであり、はっきりとはしていない。体力の衰えた姉妹はやがてチフスにかかり、先にマルゴが、二、三日遅れてアンネが息を引き取ったとされている。オランダ赤十字は1945年3月31日を死亡日としているが、これは特定されたものではなく、生き残った者の証言などにより、それよりも早い2月の終わりか3月の始めころに亡くなったものと推測される[171]。
死と絶望が日常的なアウシュヴィッツ収容所内でもベルゲン・ベルゼン収容所へ移送される時も命を落とさなかったのは、最後まで生きる希望を捨てない彼女たちの前向きな姿勢があったからである。この姿勢はアンネの日記にも表れており高く評価されている。
戦後 [編集]


1955年に出版されたスペイン語版の『Las habitaciones de atrás(後ろの家)』の初版
隠れ家の住人はオットー・フランクを除いて全員が終戦を迎えることなく強制収容所の中で死亡した。アンネとマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所、母エーディト・フランクはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ペーター・ファン・ペルスはマウトハウゼン強制収容所、ヘルマン・ファン・ペルスはアウシュヴィッツ強制収容所、フリッツ・プフェファーはノイエンガンメ強制収容所でそれぞれ死亡している。アウグステ・ファン・ペルスの死亡場所は不明である。
オットー・フランクは、解放後にアムステルダムに戻った。日記を保存していたミープ・ヒースから娘アンネの残した日記などの文書を遺品として渡された。この文書はオットーによってタイプし直され、関係者の間に私家版としてごく少数の者に配られた。やがてこれが評判を呼び、1947年に『後ろの家』(nl:Het Achterhuis)というタイトルでオランダ語の初版が出版された[172]。
売れ行きは非常に好調で、ほどなく各国語に翻訳された。1950年にはドイツ語版とフランス語版が出版され、1952年5月に英語版が出版された[173]。日本語版は昭和27年(1952年)に『光ほのかに アンネの日記』というタイトルで文藝春秋から出版されたのが最初である[2]。イギリスではあまり売れなかったが、アメリカ・ドイツ・フランス・日本では発売とともに好調な売れ行きを示した[174]。イギリスでは1954年にペーパーバック版になった後に売れるようになった[175]。
1955年10月5日に戯曲『アンネの日記』がニューヨークの劇場で初演された。主演のスーザン・ストラスバーグの友人マリリン・モンローが観劇している[176]。同演劇は1956年度のピューリッツァー賞とトニー賞を獲得した[177]。


ドイツ・ルートヴィヒスハーフェンの「アンネ・フランク実科学校」。
1956年からヨーロッパでも上演された。特にドイツで重く受け止められた。100万人のドイツ人が観劇し、その効果でドイツでの「アンネの日記」の売り上げが急上昇し、ドイツ各地にアンネの名を冠した青少年団体や学校や通りが出現するようになった[178]。オランダでは1956年11月27日にオランダ王室の臨席のもとで初上演された。そのオープニング・セレモニーにオットー・フランク、ミープ・ヒース、ヤン・ヒース、ベップ・フォスキュイル、ジャクリーヌ・ファン・マールセン(ジャック)らが出席している[179]。


オランダ・アムステルダムのメルウェーデプレインに建つアンネ・フランク像(2005年)
1957年にはアメリカの20世紀フォックス社が映画『アンネの日記』(en)の撮影を開始した。大戦中にダッハウ強制収容所を解放したアメリカ軍部隊の兵士だったジョージ・スティーヴンスが監督を務めた。この映画は1959年4月16日にアムステルダムでユリアナ女王やベアトリクス王女臨席のもとに初公開された[180]。
隠れ家のあるアムステルダム・プリンセンフラハト263番地を含めた地域一帯がブローカーに買収され、さらに1957年5月には再開発予定地に組み込まれて、アンネの隠れ家のあった建物が取り壊されそうになった[172][181]。取り壊しに反対する市民運動が巻き起こり、ユリアナ女王やアムステルダム市長も運動に参加し、海外からも寄付金が寄せられた[172]。建物を所有していた不動産会社ベルクハウス社[182]は市民の声に負け、「アンネ・フランクに捧げる」として隠れ家の建物をアムステルダム市に寄付した。アムステルダム市はアンネの隠れ家の建物の付近を「歴史地区」に指定し、保護することを市民に約束した[172]。建物の保存と一般公開を目的として「アンネ・フランク財団」が立ち上げられ、1960年5月に同財団が建物の所有権を買い取り、博物館「アンネ・フランクの家」として一般公開を行っている[183]。
1980年8月19日にオットー・フランクはスイス・バーゼルの自宅で死去した。オットーの遺言でアンネの書いた物はすべてオランダ政府に遺贈された[184]。オランダ国立戦時資料研究所が1980年11月にアンネの日記の原稿を受け取っている[184]。
アンネ・フランクの将来の夢は著名な作家になることであったが、多くの芸術家たちと同様、死して後その名が知られるようになった。2004年10月3日、オランダの司法省は、ドイツからの亡命と同時に無国籍となり、国籍を持たないまま、この世を去っていった彼女にオランダの市民権を与えるべきという要望に、死後の市民権の付与は不可能という拒否解答を出した。彼女は、政治、文化、経済などでのオランダを代表する人物の中に以前から数えられているが、国籍、市民権は
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【2010/11/07 16:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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