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【2024/07/05 05:34 】 |
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歴史
日枝神社は既に南北朝時代から存在したとも言われているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった。
元和元年(1615年、寛永12年(1635年)とする異説もある)には、祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった。また祭礼は本来毎年行われていたが、天和元年(1681年)以後には神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になった。これは各氏子町が全て自前で祭礼の諸費用を賄わなければならず、また当時日枝神社の氏子町の中には神田明神の氏子を兼ね神田祭にも参加していた町があり、年に二度の出費となったので、各町への費用軽減の意味があったといわれる。
江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の祭には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となった。また、後に祇園会と混同されて、江戸を代表する夏祭りとして扱われるようになった。
そんな山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。また明治22年(1889年)を最後に、山車が山王祭に引き出されることは無くなった。市街電車の架線敷設により背の高い山車の運行が出来なくなったからといわれるが、引き回すのに多額の費用を要する山車が、各町において次第に経済的な負担になったことによるともいう。更に太平洋戦争の空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている。
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【2010/10/26 22:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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