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森野 将彦(もりの まさひこ、1978年7月28日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
内野、外野全てのポジションが守れるユーティリティプレイヤーとして知られている。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り後 2 プレースタイル 3 詳細情報 3.1 年度別打撃成績 3.2 年度別守備成績 3.3 背番号 3.4 タイトル・表彰 3.5 個人記録 4 脚注 5 関連項目 6 外部リンク 経歴 [編集] 小学校時代は川島イーグルスに所属、また横浜大洋ホエールズ友の会にも加入していた。東海大相模高校では1年生時よりレギュラーとして活躍し、1995年の春の選抜大会に出場。3年生時には主砲として、全国高等学校野球選手権神奈川大会準々決勝で横浜高校と対戦したが、松井光介に3四球の敬遠と勝負を避けられ、チームは惜敗。しかし唯一相手が勝負にきた打席では本塁打を打ち、意地を見せている。高校通算38本塁打。1996年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名され入団。 プロ入り後 [編集] ルーキーイヤーの1997年8月29日、ナゴヤドームでの対ヤクルトスワローズ戦で8番・遊撃手で初先発し、初本塁打を放った(高卒新人本塁打は中日では立浪和義以来)。2002年から先発出場の機会が増える。 2005年、井上一樹、大西崇之、英智らと左翼手の座を争った。また立浪に代わって三塁手としても出場することで出場機会を増やした。 2006年、背番号を31に変更(31にした理由は掛布雅之に憧れていたため)。三塁手の座を立浪と争っていたが、オープン戦で死球を受け右手小指を骨折。交流戦半ばに復帰し、故障の荒木雅博に代わりセカンドを守る。6月25日、プロ初の満塁ホームランとプロ初のサヨナラヒットを放ち活躍。荒木の復帰後、立浪から三塁手の座を奪う。一時打率3割、得点圏打率4割の活躍を見せて、初めて規定打席に到達。9月16日、山本昌がノーヒットノーランを達成した対阪神戦で、赤星憲広の三ゴロをエラー。結果的に許した走者はこの1人だけだったために、完全試合を逃すプレーとなったが、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそ(ノーヒットノーランの)記録が達成できた」と発言した。これは打者は俊足の赤星憲広であったため、仮に上手く捌けていたら内野安打となり、ノーヒットノーランも達成できなかっただろうと山本昌自身が考えたためである。 2007年、三塁手中村紀洋の加入に伴い、主に左翼手として出場。その後は荒木の戦線離脱もあり、前半戦は二塁手としても出場。オールスター戦に初出場を果たし優秀選手賞に選ばれた。後半戦以降は福留孝介の離脱もあり、中堅手や右翼手としての出場も増え、打順は5番か3番を任された。このシーズンはバッテリー以外の全てのポジションを経験。2年連続で規定打席に到達し、更に自己最高の打率.294、18本塁打を記録。本塁打と打点は前年よりほぼ倍増し、打線の中軸としての役割に応えた。日本シリーズでも4打点を挙げて優秀選手賞に選ばれた。 2008年、左翼手和田一浩の加入により主に中堅手として出場。春季キャンプで左手甲を骨折したが、開幕戦に7番・中堅手として出場。打順は開幕当初は7番だったが、6番を経て3番に戻る。5月に左ふくらはぎ肉離れで戦線を離脱するも7月5日に復帰。8月、北京オリンピック野球日本代表に選出。北京五輪後は故障の井端弘和に代わり1番を、主砲・タイロン・ウッズが不調の際には4番を任され、このシーズンは2番・8番・9番以外の打順を経験した。自身初の打率3割を記録。8月、国内移籍が可能なFA権を取得。オフに球団と年俸変動制の5年契約を結んだ。 2009年、このシーズンは中村紀洋の楽天への移籍により、主に三塁手として出場。開幕から3番を任されるが、開幕後の2ヶ月間は打率.250にも届かない不調に陥る。6月、1軍登録日数が9年に達し、海外移籍も可能なFA権を取得。6月からは打撃も復調。8月7日の対横浜戦で自身初となる1試合2本塁打・5安打と活躍。8月27日の対巨人戦でプロ入り13年目にして初の20本塁打を達成した。尚、シーズン終盤は同僚のトニ・ブランコと打点王争いを繰り広げるも、最終的には1点差で2位に終わる。本塁打・打点は自身最高の成績を挙げた一方で、守備面では両リーグ最多の25失策と乱れた。11月5日、この年で現役引退した立浪の背番号3の引継ぎを打診されたが、契約更改の席上、前述の失策の多さ、ファンの多くが野球界の永久欠番なる事を期待した事などを理由として、時期尚早であると自ら保留し、2010年は前年にルーキー野本圭がつけていた30をつけることになった(野本は引退した井上一樹の9をつける)。 2010年から選手会会長職に就任した。 プレースタイル [編集] 打線の主軸を打ちながら内外野の複数のポジションを守れる。 ここ数年は主に三塁手、外野手、二塁手として出場。内・外野用のグラブを遠征でも持参している。このため、三塁手専任となった2009年シーズンで初めて一塁手を守った6月10日の対楽天戦(宮城球場)でも自分のファーストミットで守備に就いた。2005年頃から三塁手としての出場機会が増え、落合監督からもノックで鍛えられ、且つレギュラーも獲得する程に上達したのだが、2007~8年にかけては、中村紀洋の存在もあって、外野手(レフト・センター)での守備に就く事が多くなった。その後、本格的に三塁手専任となった2009年以降はそれまでの外野でのプレーが内野守備の妨げになり(外野と内野のスローイングの違いによるものと本人も語っている[1])、上手かったはずの三塁守備で失策が増えつつある。 通算本塁打の割合に3ランが多い(特に2007年シーズンは、レギュラーシーズンは18本中8本。ポストシーズンでも2本中1本)ことから「ミスター3ラン」の異名を持つ。ちなみに、2007年までの通算55本中19本が3ランであった。 打撃では元々早打ちの傾向があったが近年は四球が増え出塁率も向上している。粘り打ちの技術が向上し特に2010年は三振が少ない。中距離打者ではあるが、得点圏打率が高く打点を稼げる為3番や5番での出場が多い。盗塁は少ないが足は遅くは無く走塁能力は平均的である。 左投手に弱く、対左打率が3割を越えたシーズンがない。特に2010年は右投手に打率.373と高打率を残したのに対し、左投手には打率.255と大の苦手とした。 バット、グラブはZETT製のものを使用している[2]。 PR |
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