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和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。
マネジメント契約先はスポーツビズ。 愛称は同姓の和田勉にちなんだベンちゃん(ベン)、ビッグベンなど。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 西武時代 1.3 中日時代 2 プレースタイル 2.1 打撃 2.2 守備 2.3 その他 3 詳細情報 3.1 年度別打撃成績 3.2 年度別守備成績 3.3 背番号 3.4 タイトル・表彰 3.5 個人記録 4 出演 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 岐阜県岐阜市出身。県立岐阜商業高校では2年時に控え捕手として第61回選抜高等学校野球大会と第71回全国高等学校野球選手権大会に出場した。 高校卒業後、東北福祉大に進学し、仙台六大学野球連盟のリーグ戦では4年間で首位打者1回、ベストナイン2回を獲得する。4年時には主将を任され、春のリーグMVPに輝いた。 大学卒業後は社会人野球の神戸製鋼に入社。社会人通算.429の打率を残し、強打の捕手として1996年のドラフトで西武ライオンズから4位指名を受け入団。 西武時代 [編集] ルーキーイヤーの1997年は、主に代打として17試合に出場し、プロ初安打・初打点を記録。 1998年は、正捕手伊東勤の厚い壁のため、捕手だけでなく外野手としても出場機会を増やし、外野手で9試合にスタメン出場した。この年プロ初本塁打を記録。 1999年は、伊東勤、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番・左翼手として起用された。 2000年には、打撃が認められて出場機会が増え、規定打席未満ながら3割を打った。9月9日には4番も任され、9番以外のすべての打順でスタメン出場。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。またこの年に、同僚の中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており、当時背番号22だった和田は当時中嶋がつけていた一桁の5と背番号を交換している。 2001年は、東尾修監督に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を打って注目を集めた。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外すべてに起用され、本格的にレギュラー獲得とはいかなかった。9月24日の対近鉄最終戦で松坂大輔がタフィ・ローズに55号ホームランを打たれ、中村紀洋に逆転サヨナラ2ランを打たれた試合で捕手としてフル出場していた。 2002年は、新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番左翼手のレギュラーに定着。初めて規定打席に到達し、打率.319、本塁打33本、81打点と、定着1年目から中軸打者として申し分のない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。しかし、レギュラーとして迎える初めての日本シリーズでは15打数無安打の大不振。指名打者部門で初のベストナインを受賞。 2003年は、前年よりさらに成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。また柴田博之が出場する際には中堅手や右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞。 2004年は、アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続3割30本80打点を達成。5月30日の対日本ハム戦(函館市千代台公園野球場)で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦(対日本ハム戦)で、横山道哉からサヨナラ本塁打を放ち、チームを勢い付ける。 後に移籍することになる中日との日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。 2005年は、春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦(打率.319)以来12年ぶり。4年連続30本塁打には3本届かなかった。 2006年3月、WBC日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。 6・7月が不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。しかし、自己最高の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。 2007年は、9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1000本安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録。本塁打はレギュラー定着後最低の18本、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)に終わった。この年は塁上に走者がいる場面では打率.224と低迷し、リーグ3位の22併殺打を記録した(逆に走者なしでは.353と好調であった)。 この年初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決。なお、背番号は西武時代と同じ"5"が内定し、3年契約となる。[1] 中日時代 [編集] 2008年、中日入団1年目も、西武時代と同じく5番を任される。序盤は不振であったが徐々に調子を上げていく。また、主砲であるタイロン・ウッズが不調の際には4番も務めた。この年通算1000試合出場を達成。2年連続3割を打つなど活躍したが、得点圏打率は.275とチャンスでは期待されたほどの成績を残せなかった。契約更改の際、「2009年シーズンはチャンスでもっと打っていきたい」と発言している。 2009年は、前年3割を打ったにもかかわらず「ぜんぜんダメでしょ。自己ベストより1本でも1厘でも1打点でも上にいきたい」と春季キャンプで打撃改造を行い、オープンスタンスの幅や足の上げ方を変えた。前年までの主砲のタイロン・ウッズ、中村紀洋が退団したため主砲として期待され4番に座る可能性もあったが、開幕はいつもの5番でスタートし、開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切った。4月25日の巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。5月12日のヤクルト戦では地元岐阜の長良川球場で初のホームランを放ち故郷に錦を飾った。6月21日のオリックス戦で平野佳寿から先制の満塁本塁打を放った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治や落合博満をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太とともに受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と絶好調。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割をマークし、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上げ、打撃主要部門全てでリーグトップ10に入った。守備面でも元捕手の強肩かつ堅実な送球で12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場(144試合)した。 2010年は、序盤から打撃が好調で、4月を終えて.376、5月を終えて.358の好成績でシーズン終盤まで打撃成績トップを維持し続けた。また、交流戦の途中から不調のトニ・ブランコにかわり4番を任されるようになった。シーズン終盤に少し調子を落とし首位打者は青木宣親に譲ったものの最終的に打率.339、37本塁打、93打点とチーム三冠の活躍でチームの4年ぶりの優勝に大きく貢献した。また昨年に続き2年連続でシーズン全試合に出場した。クライマックスシリーズ第2ステージの巨人との試合では、第4戦に9回裏3-3の場面で久保裕也から左翼手のアレックス・ラミレスの頭上を越えるサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに輝いた。日本シリーズでも第2戦・第4戦で猛打賞を記録するなど好調を維持し、7試合で29打数12安打1本塁打6打点と活躍。チームは2勝4敗1分で敗れたが、敢闘選手賞を受賞した。 プレースタイル [編集] 打撃 [編集] 独特の打撃フォームから弾き出す安定した打撃が特徴。2009年6月21日のオリックス戦で通算打率ランク算出の最低ラインとなる4000打数に到達し、その時点での通算打率.315は日本人右打者としては最高打率であり、三度の三冠王を獲得した落合博満(現中日監督、同じく右打者)をも上回る。率だけでなく広角に長打も打てる強打者でもあり、2005年は全27本の本塁打のうち8本を右方向へ放ち、右打者の右方向への長打率でリーグNo.1になっている。西武在籍時は、5番に和田がいることで相手バッテリーが4番のアレックス・カブレラとの勝負を避けられない場面が多かった。 バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームによるフルスイングが持ち味で、あまりに特徴的過ぎるため「真似するのは無理」「子供に薦めてはいけない」と冗談混じりに言われるほどである。一見非常に粗いフォームでありながら、バットコントロールが巧く、三振は少ない。スイングの後、腰が落ちたような形になるので、左方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもある。最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事により併殺打が多い。2009年からは打撃改造に伴って構え方が変化、和田特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。ただ、オープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。 独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森の打撃理論を理想的に実践しているため金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている。 レギュラー定着後、9年で3割以上を8度記録など華々しい記録をもっているが、シーズン100打点を記録したことは一度もない。原因としては故障などでフル出場した年が2009年を除いて無いことと、毎年前打者が外国人選手のホームランバッターである事が多く、ランナーが既にホームランによって帰されている場面があった事が挙げられる。得点圏打率は年によってややムラがある事も特徴。2006年シーズンは100打点には届かなかったものの19本塁打で95打点であった。しかし、その年は和田がレギュラー定着後、唯一打率3割(.298)を切った年でもある。逆に、翌2007年シーズンは打率.315、18本塁打を記録したものの、49打点と前年からほぼ半減させてしまっている。 守備 [編集] 捕手出身として考えれば特別強肩というわけではない。しかし捕手出身だけあって捕球してから投げるまでが速く、コントロールは正確である。さらにフェンスに当った後などの打球判断が良いこともあり補殺は多く、セ・パ両リーグでシーズン最多補殺を記録している(肩が強いという印象が薄いため、和田のところに打球が飛ぶと走者が本塁へ突入するということも一因ではある)。和田のスローイングに関して、谷繁元信は「上品な球」と表現している。[2]また、「ボールを見ていなくても取れる範囲に送球がくる。走者を見ていられるためブロックしやすい」とも評している(一方で強肩として知られる藤井淳志に対しては「(コントロールが悪く)ボールを見ていないといけない」と評している)。 スライディングキャッチなど積極果敢なプレーを見せるが、基本的に守備範囲は狭いため、中日時代にはタイロン・ウッズ放出後に、一塁手へのコンバート案が浮かび上がったことがある。 その他 [編集] ボールを避けるのがうまい。2010年では出場試合数が144試合であるにも関わらず、死球数は0である。 PR |
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