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【2024/10/06 09:36 】 |
英智
英智(ひでのり、1976年5月9日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。本名は藤本英智(ふじもと ひでのり)で、旧姓は蔵本。愛称は「ひでのり」、「クラ」、「クララ」など。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 年度別守備成績
4.3 背番号
4.4 獲得タイトル・表彰
4.5 個人記録
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
県立岐阜商業高校では控え投手からセンターのレギュラーとなる。その後進学した名城大学では3番センターとして活躍し、投手も兼任。1998年、愛知大学野球リーグで春・秋季ベストナイン外野手に選ばれた。
1998年のドラフトに中日ドラゴンズから4位指名され、入団。
プロ入り後 [編集]
ルーキーイヤーの1999年、2000年は一軍出場なしに終わった。入団当初から俊足強肩が高く評価され、山田久志監督の時代には投手と外野手の兼任案が出たこともある。しかしバッティングに課題があり、なかなか一軍に定着できなかった。
2004年のシーズンから指揮を執る落合博満監督が掲げた「オレ流野球」の一つ「一芸に秀でた選手が必要」を象徴する選手として、2004年シーズンは開幕から一軍の守備固めおよび代走として活躍。徐々に出場機会が増え、福留孝介が8月にアテネオリンピック出場のため欠場、さらに9月に死球による骨折で戦列を離れると、右翼手のレギュラーに定着し、ゴールデングラブ賞を獲得した。レフト英智、センターアレックス、ライト福留と組んだ堅守で一躍有名となった。
2005年は走塁中に肩を強打して負傷した影響もあり、打率1割にも満たない打撃不振に陥った。また代走専門選手として活躍していた澤井道久がシーズン後半から登録を抹消されたため、やむを得ず代走で起用され守備位置の関係で途中交代させられるなど、起用法が一定しなかった。
しかし2006年には、落合監督が「秋にあれだけ振ったんだからな。一番練習してる奴が打つ」と話すように、人一倍の練習量で打撃の弱さを見事に克服し成績が向上。5月には3回のヒーローインタビューを経験。6月には自身4年ぶりとなるホームランを放った。2試合連続で満塁のチャンスから2点タイムリーを打ったため、満塁男と言われたこともある。
2007年は李炳圭の加入でシーズン序盤は代打、代走、守備固めでの起用が多かったが、李の低迷や福留の戦線離脱もあり、打撃好調ということもあり、中盤以降はスタメンでの起用が増加。しかし、9月26日の対巨人戦で肉離れを起こし、残りのシーズンを棒に振ってしまう(落合監督はその後のメンバーのやりくりについて「クラ(英智の愛称)の離脱が一番痛かった」と語っている)。シーズンオフ、2008年シーズンからの背番号が57から24へ変更されることが発表された。これは落合監督が「57ではケガが多いから」という理由であり(彦野利勝の項も参照)、新番号で心機一転を図って欲しいという願いがこめられている。また、5と7の付いていた2005年と2007年はケガをしている。
2008年も、代走、守備固めであったが、交流戦に入ってレギュラーだった森野や李が怪我で離脱したことによってスタメン出場する機会もあった。だが、森野や李が復帰後は二軍落ちも経験するなど77試合に留まった。2009年は、藤井淳志やルーキーの野本圭らの台頭もあり、開幕を二軍で迎えたが4月21日に一軍登録され、その日の対阪神戦で6番・右翼手で今季初出場を果たした。
プレースタイル [編集]

プロ野球界で史上屈指の俊足・強肩(ナゴヤドームのホームベースからセンターに向かって遠投してフェンス直撃)・守備範囲の広さで知られる。
凡フライを落球した際、「あいつ(英智)が捕れなきゃ、誰も捕れないよ」と落合監督に言わしめるほど信頼されている。
2004年以降、強肩が警戒され相手チームが進塁を自重する場面が多くなったため、補殺数は少なくなっている。とは言え、地面すれすれの飛球を回転しながら捕球したり、フェンスに足を掛けてよじ登りながら捕球したりするなど、持ち前の運動能力の高さを生かしたダイナミックなプレーで守備のスペシャリストとして存在感を見せている。走塁の技術にも磨きがかかり、試合の流れを変える頭脳的な好走塁も多い。立浪和義は、「守備・走塁要員としてメジャーリーグのスカウトが偵察に来たことがある」と明かしたことがある。
飛球の捕球方法が独特である。通常は縦にグローブを構えるところ、横に寝かせて捕球する。英智いわく、「飛球がぶれたり風で流されたり、またお手玉してしまった場合でも上下左右に動かしやすく対応しやすい」とのことである。これは中日で同僚だった大西崇之から学んだもの。
人物 [編集]

英智の兄2人も県立岐阜商業高校で野球をしており、高校生時代は『蔵本三兄弟の三男』としてプロのスカウトに知られていた。(長兄の蔵本雅由はその後名城大学を経て社会人野球の一光入りし、チーム創設時から長年エースとして活躍した。次兄の蔵本敬充(たかみつ)は法政大学野球部でも野球を続け、その後はモデルに転身して活躍しており、その後キヤノンのビデオカメラや日産・ノートのテレビCMにも出演した。ただ、英智は「野球は父親の影響で始めたが、スパルタ式の指導が嫌でずっと辞めたかった」と語っており、高校時代、強豪だった母校が甲子園に出場した時を想定し、それを機に辞める予定だったという。しかし、結果はまさかの県予選3回戦敗退。そのために辞めるきっかけがなくなってしまい、野球を続けることにしたのだった。)
見かけや雰囲気は朴訥そのもので、実際に恥ずかしがり屋。多くは語らないが、口を開いた際はかなり独特な発言をする。以前はそれほど目立つ選手ではなかったが、ヒーローインタビューでの受け答えでファンが急増。いまやチーム内では押しも押されもせぬ人気選手となっている。
打席登場曲は通常時がTHE HIGH-LOWSの「日曜日よりの使者」、チャンス時が「RCサクセションの雨あがりの夜空に」である。ちなみに、以前は風貌と似つかわしくないLINDBERGの「BELIEVE IN LOVE」であった(ランナーのいない打席では井上陽水の「Make-up Shadow」)。
同期の福留孝介は「あの人間離れした運動神経は、どんなスポーツをやらせてもうまいだろう。」と言っている。また、報道ステーションのナレーションには「野生人」とも言われたことがある。
中日ドラゴンズのマスコットであるドアラと仲が良く、中日ドラゴンズ公式ブログではしばしば彼とドアラが会話している場面の写真が掲載されている。3年目の2001年フレッシュオールスターゲーム出場、その時点では一軍出場経験皆無だった。
婿養子であり、蔵本は旧姓である。「なんでお父さんは、野球の時は苗字が違うの?」と子供に聞かれたため、2004年から登録名を「英智」に変更した。
2004年6月27日の阪神戦では、葛城育郎の放った犠牲フライとなる打球を、好返球で三塁走者の桧山進次郎を刺し、お立ち台に立つ。2005年8月5日の対横浜戦にで、1点を追う最終回、1死満塁のチャンスに三塁走者の英智は、立浪和義の浅い右飛で同点となるホームインをし、落合監督は「英智はプロだ」と述べる。2006年5月10日、対日本ハム戦で、延長11回表、岡島秀樹のワイルドピッチで二塁からホームインする。同年8月12日の対阪神戦、2回裏2死で二塁走者の英智は、荒木雅博のライト前ヒットで、前進守備だったが、3m超のロングヘッドスライディングでホームインし、落合監督は「あれで(本塁に)帰って来られるんだから凄い。ああいうプレーを見せられるのがプロだ」と述べる。
2006年5月3日の対横浜戦8回裏の満塁の場面の2点決勝適時打でお立ち台へに立ち、「代えられると思ったけど、曲が流れても監督が出てこないんで、僕かと思って打席に立った」「去年などの僕であれば、間違いなく代えられていた」などと発言する。翌4日も満塁から2点適時打でお立ち台に立ち、「今日は監督を見ずに打席に立てました」と発言する。同年8月11日の対阪神戦、下柳剛から2点タイムリーを放ち、お立ち台に上がる。「下柳さんはいつもタイミングが合う」という発言をし、さらに「僕は川上さんみたいにスーパーサイヤ人じゃないので、ナメック星人程度に頑張ります」とドラゴンボールに例えて発言している。
2007年4月19日の対阪神戦で代打逆転タイムリーヒットを放ち、同じく代打でタイムリーを放った立浪と共にお立ち台に上がる。カウント2-1と追い込まれてから打ったことに「みんなと一緒でダメだと…。半分ダメっぽいと思いながらも、最後まで諦めないのが僕のベースボールスタイルなんで。かじりついて(食らいついて)いきました」と英智節を披露。そして、立浪と一緒のお立ち台に対して、「今日のお立ち台の写真は後からパネルにしてもらいたい。僕が小学校の頃、ナゴヤ球場で1000円しかお金無いのに1000円のテレホンカードを買ったのが立浪さんなんです。そういう方とお立ち台に立てて、野球やめた時にいい思い出になっていると思います」と、喜びを語っている。
2007年6月8日、対西武戦で、9回表に中島裕之の2ランで逆転された後の裏、2死二・三塁の打席で初球を狙いライト線への長打コースで2人のランナーが生還。更なる逆転でチームは3連敗から脱出することができた。
2007年7月14日、対ヤクルト戦で、同点で迎えた7回裏1死二・三塁で三塁走者は英智。ヤクルト内野陣は補殺を狙った前進守備を敷き、打者タイロン・ウッズは注文通りのセカンドゴロ。にもかかわらず、英智は二塁手の田中浩康が本塁に投げるのを諦めるほどの判断の早さで本塁に突入し、見事に勝ち越しのホームインとなった。試合後、英智は「7割は経験、3割はギャンブル。代走要員だった頃の経験が生きている」とコメントしている。
上述の「ベースボールスタイル」について、同年8月19日の試合後(この日、ナゴヤドームで一軍戦で初めてのホームランを放つ)、「ボクには48のベースボールスタイルがある」と語っている。この数は相撲の決まり手(俗に言う「四十八手」)や漫画「キン肉マン」の「48の殺人技」と同じ数である(ただし、このコメントはヒーローインタビュー時ではなく、その後のベンチ裏で記者に答えたものである)。その後もヒーローインタビューなどでは様々な「英智のベースボールスタイル」の種類をも語っている。
2008年6月9日の対楽天戦ではこのシーズンより背番号が57から24に変わって初めてのお立ち台だったことから、「57番(の時)より(現在の)24番の姿を多く見せられるように頑張りたいです」と発言。また、対戦相手が田中将大であり、「(田中投手は)逞しい投手ですけど、何とかやっつけることができました」と語っていた。
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【2010/11/08 20:20 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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