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アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク/Annelies Marie Frank 発音(ヘルプ・ファイル) 、1929年6月12日 - 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。
ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での事を日記に書き続けた。1944年8月4日にゲシュタポに隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬頃のことと見られている。 ゲシュタポに荒らされた隠れ家には、アンネが付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える永遠の世界的ベストセラーになった[1][2]。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 生誕 1.2 ドイツ脱出 1.3 オランダでの生活 1.4 ドイツ軍、オランダ侵攻 1.5 ドイツ軍占領下での生活 1.6 隠れ家の準備 1.7 隠れ家生活 1.7.1 隠れ家での人間模様 1.7.2 様々な困難 1.8 逮捕 1.9 ヴェステルボルク収容所 1.10 アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所 1.11 ベルゲン・ベルゼン収容所での死 1.12 戦後 2 その他 3 注釈 4 参考文献 4.1 出典 5 関連項目 6 外部リンク 生涯 [編集] 生誕 [編集] アンネ・フランクは、1929年6月12日朝7時半頃にドイツヘッセン州フランクフルト・アム・マインのエッシェンハイマー・アンラーゲ通り(Eschenheimer Anlage)にある祖国女性会病院(der Klinik des Vaterländischen Frauenvereins)において生まれた[3][4][5]。 父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父オットーは銀行家だった[6]。母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった[6][7]。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた[5][8][9]。 ドイツ・フランクフルトのマルバッハヴェーク307番地にある幼少期のアンネのメモリアルプレート。右がアンネ。左がマルゴット。中央は当時の友達。 生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地(Marbachweg307)にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った[10][11]。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった[12]。1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地(Ganghoferstraße 24)のアパートへ引っ越した[13][14][15]。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れずに業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのは止めることとなった。一家はベートーベン広場(Beethovenplatz)のオットーの実家へ戻った[16][17]。ここは1901年にオットーの父ミカエルが購入した高級住宅で、ミカエルの死後はオットーの母アリーセが一人で切り盛りしていた[3]。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた[18]。 しかしこの頃のドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラーがいつ首相に任命されてもおかしくない状況になった。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった[19]。 ドイツ脱出 [編集] 1933年3月21日、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー(左)とドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク(右) 1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人達は次々とドイツ国外へ亡命していき、1933年代だけで6万3000人のユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命している[20][21]。1933年3月のフランクフルト市議会選挙でもナチ党が圧勝した。市の中心部では勝ち誇ったナチ党員たちが大規模な反ユダヤ主義デモを行った[22]。ユダヤ人商店のボイコット運動も激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された[23]。1933年4月7日に制定された「職業官吏団再建法」によって反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職・退職させられ、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められるようになった。アンネもマルゴーもドイツでまともな教育を受けることは不可能であった[24]。 1929年夏にスイスへ移住していたアンネの叔父エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」(Pomosin)の子会社「オペクタ商会」(Opekta)スイス支社を経営していた。エーリヒ・エリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダ・アムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした[25][26][21]。 まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。その間、アンネは姉マルゴーや母エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母ローザ・ホーレンダーの家で暮らした[25][27][28]。オットーはエーリヒ・エリーアスから1万5000ギルダーの無利子貸付を受けてオランダ・オペクタ商会を起こした。ポモジン工業には利益の2.5%を支払うこととなった[25][29][26]。ヴィクトール・クーフレルやミープ・ザントルーシッツなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた。 オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウト(nl:Amsterdam-Zuid)の新開発地区に一家四人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴットが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった[30][31]。 オランダでの生活 [編集] オランダ・アムステルダムのメルウェーデプレイン(2010年)。当時のままに残されている。アンネの自宅はビルの右側の建物群、ビルの方から五番目の建物。写真では一番右端に少しだけ見える。広場中央に見えるのはアンネ・フランク像。 アムステルダム・ザウト地区は当時開発中でドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた。フランク一家もそうした家の一つである。フランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデプレイン(nl:Merwedeplein)37番地のアパートの三階で暮らしていた[32][33][34][35]。メルウェーデプレインは二等辺三角形をした広場で三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている(写真参照)[36]。 姉のマルゴットは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールスストラートにあるモンテッソーリ・幼稚園に入学した。さらに1935年には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・小学校に入学する[# 1]。モンテッソーリ学校は自由な教育を特徴とし、授業中の生徒のおしゃべりも推奨していた。アンネにモンテッソーリ学校を選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという[38][39]。 父親のオットー・フランクは娘たちについて「アンネは陽気な性格で女の子にも男の子にも人気があった。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。一方姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子供でした。」と後に語っている[40]。 アンネが暮らしていたメルウェーデプレイン37番地のアパート。三階部分がフランク家の部屋だった 当時モンテッソーリ学校は革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった[41]。アンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった[42]。アンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(愛称ハンネ。オランダ名はリース[43])(Hanneli Goslar)[# 2]やスザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)(Susanne Ledermann)[# 3]と親しく遊んでいた。いつも仲良しの三人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの三人組」などと呼ばれていた[43][53]。特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。1937年秋にアンネにサリー・キンメル(Sally Kimmel)という初めてのボーイフレンドができた。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになった[56]。陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気があった。映画スターやファッションに興味を持ち始めたのもこの頃だった。しかしアンネは病弱であり、百日咳、水ぼうそう、はしか、リューマチ熱など子供病にはほとんど罹患している[57][58]。 1938年10月にオットー・フランクはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」(Pectacon)を設立した[59]。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。ヨハンネス・クレイマンをオペクタ商会とペクタコン商会の監査役とし、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えている[60]。ファン・ペルス一家は1937年6月にドイツをのがれてアムステルダムへ移住して来ており、フランク家の近くで暮らしていた[61]。ファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。 1938年末には母エーディトの実家であるドイツ・アーヘンのホーレンダー家が経営する「B・ホーレンダー商事会社」が「アーリア化」(ドイツ政府の圧力の下にユダヤ人企業がドイツ人実業家に捨て値で買い取られる)を受け、ホーレンダー家が財産を失った[62][63]。エーディトの兄ユリウスは従兄弟のいるアメリカへ逃れたが、エーディトの母ローザは当時72歳で海を渡っての長旅は無理だった。結局ローザは息子ユリウスに同行せず、1939年3月にアムステルダムのフランク家へ移ってきて、一家は五人暮らしになった[62][64][65]。アンネはおばあちゃんっ子であり、よくローザに学校での話や友達とのことなどを話した[66]。 また1940年春ごろにはアメリカ合衆国アイオワ州ダンビル(Danville)からオランダへ赴任してきていた女教師バーディー・マシューズの計らいでアンネとマルゴーは、彼女の教え子であるダンビルの学校の生徒と文通することになった。アンネとマルゴーの文通相手はダンビルの農家の娘の姉妹ベッティ・アン・ワーグナー(Betty Ann Wagner)とホワニータ・ワーグナー(Juanita Wagner)であった。アンネはホワニータと文通した。ちなみにこの文通は英語で行われている。父オットーが娘たちの書いた手紙を英訳したものと思われる[67][68]。 ドイツ軍、オランダ侵攻 [編集] 1940年5月、アムステルダム市に入るドイツ軍を歓迎するアムステルダム市民。 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していた。しかし1940年5月10日早朝にドイツ軍はオランダへ侵攻した[69][70]。この日は金曜日で平日だったが、ドイツ軍侵攻を受けて聖霊降臨祭の休みが急遽繰り上げられて、学校は休みになり、アンネは自宅で待機した[71]。一方、父オットーは会社に出勤している。オットー以下オペクタ商会の社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープ・ヒースは著書の中で回顧している[72]。 オランダ国内はパニックに陥った。ポーランドで戦争後、オランダ政府は「たくさん蓄える者は国民に害」をスローガンに食糧配給制へ移行していたが、人々は食糧を蓄えようとして商店に殺到した。街中には空襲警報が連発した。ラジオ放送は混乱に陥り、相矛盾する命令や意味が不明瞭な命令を国民に次々と出した[73]。オランダ国内にいるドイツ人が手当たり次第にオランダ当局に逮捕された。自動車を所有する裕福なユダヤ人の中には、オランダからの脱出を試みようとアイマウデン(nl:IJmuiden)やスヘフェニンゲンなど海の方へ逃げる者もいたが、イギリス行きの船舶はわずかで、ほとんどはオランダ脱出に失敗している[74][75]。フランク一家は逃亡を試みなかった。フランク一家は自動車を所持していなかったし、オットーやエーディトは、青春期の娘二人や年老いた祖母を連れてあちこち逃げまわりたがらなかった。オットー達は娘たちが心配なく青春を過ごせるよう現下の政治情勢については家庭内でほとんど話さないこととした[76]。 5月13日にはヴィルヘルミナ女王やディルク・ヤン・デ・へール(nl:Dirk Jan de Geer)首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した[75]。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリー・ヴィンケルマン(nl:Henri Winkelman)大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。侵攻から一週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった[77][78][79]。 PR |
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