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アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク/Annelies Marie Frank 発音(ヘルプ・ファイル) 、1929年6月12日 - 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。
ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での事を日記に書き続けた。1944年8月4日にゲシュタポに隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬頃のことと見られている。 ゲシュタポに荒らされた隠れ家には、アンネが付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える永遠の世界的ベストセラーになった[1][2]。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 生誕 1.2 ドイツ脱出 1.3 オランダでの生活 1.4 ドイツ軍、オランダ侵攻 1.5 ドイツ軍占領下での生活 1.6 隠れ家の準備 1.7 隠れ家生活 1.7.1 隠れ家での人間模様 1.7.2 様々な困難 1.8 逮捕 1.9 ヴェステルボルク収容所 1.10 アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所 1.11 ベルゲン・ベルゼン収容所での死 1.12 戦後 2 その他 3 注釈 4 参考文献 4.1 出典 5 関連項目 6 外部リンク 生涯 [編集] 生誕 [編集] アンネ・フランクは、1929年6月12日朝7時半頃にドイツヘッセン州フランクフルト・アム・マインのエッシェンハイマー・アンラーゲ通り(Eschenheimer Anlage)にある祖国女性会病院(der Klinik des Vaterländischen Frauenvereins)において生まれた[3][4][5]。 父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父オットーは銀行家だった[6]。母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった[6][7]。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた[5][8][9]。 ドイツ・フランクフルトのマルバッハヴェーク307番地にある幼少期のアンネのメモリアルプレート。右がアンネ。左がマルゴット。中央は当時の友達。 生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地(Marbachweg307)にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った[10][11]。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった[12]。1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地(Ganghoferstraße 24)のアパートへ引っ越した[13][14][15]。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れずに業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのは止めることとなった。一家はベートーベン広場(Beethovenplatz)のオットーの実家へ戻った[16][17]。ここは1901年にオットーの父ミカエルが購入した高級住宅で、ミカエルの死後はオットーの母アリーセが一人で切り盛りしていた[3]。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた[18]。 しかしこの頃のドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラーがいつ首相に任命されてもおかしくない状況になった。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった[19]。 ドイツ脱出 [編集] 1933年3月21日、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー(左)とドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク(右) 1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人達は次々とドイツ国外へ亡命していき、1933年代だけで6万3000人のユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命している[20][21]。1933年3月のフランクフルト市議会選挙でもナチ党が圧勝した。市の中心部では勝ち誇ったナチ党員たちが大規模な反ユダヤ主義デモを行った[22]。ユダヤ人商店のボイコット運動も激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された[23]。1933年4月7日に制定された「職業官吏団再建法」によって反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職・退職させられ、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められるようになった。アンネもマルゴーもドイツでまともな教育を受けることは不可能であった[24]。 1929年夏にスイスへ移住していたアンネの叔父エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」(Pomosin)の子会社「オペクタ商会」(Opekta)スイス支社を経営していた。エーリヒ・エリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダ・アムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした[25][26][21]。 まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。その間、アンネは姉マルゴーや母エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母ローザ・ホーレンダーの家で暮らした[25][27][28]。オットーはエーリヒ・エリーアスから1万5000ギルダーの無利子貸付を受けてオランダ・オペクタ商会を起こした。ポモジン工業には利益の2.5%を支払うこととなった[25][29][26]。ヴィクトール・クーフレルやミープ・ザントルーシッツなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた。 オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウト(nl:Amsterdam-Zuid)の新開発地区に一家四人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴットが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった[30][31]。 オランダでの生活 [編集] オランダ・アムステルダムのメルウェーデプレイン(2010年)。当時のままに残されている。アンネの自宅はビルの右側の建物群、ビルの方から五番目の建物。写真では一番右端に少しだけ見える。広場中央に見えるのはアンネ・フランク像。 アムステルダム・ザウト地区は当時開発中でドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた。フランク一家もそうした家の一つである。フランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデプレイン(nl:Merwedeplein)37番地のアパートの三階で暮らしていた[32][33][34][35]。メルウェーデプレインは二等辺三角形をした広場で三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている(写真参照)[36]。 姉のマルゴットは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールスストラートにあるモンテッソーリ・幼稚園に入学した。さらに1935年には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・小学校に入学する[# 1]。モンテッソーリ学校は自由な教育を特徴とし、授業中の生徒のおしゃべりも推奨していた。アンネにモンテッソーリ学校を選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという[38][39]。 父親のオットー・フランクは娘たちについて「アンネは陽気な性格で女の子にも男の子にも人気があった。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。一方姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子供でした。」と後に語っている[40]。 アンネが暮らしていたメルウェーデプレイン37番地のアパート。三階部分がフランク家の部屋だった 当時モンテッソーリ学校は革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった[41]。アンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった[42]。アンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(愛称ハンネ。オランダ名はリース[43])(Hanneli Goslar)[# 2]やスザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)(Susanne Ledermann)[# 3]と親しく遊んでいた。いつも仲良しの三人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの三人組」などと呼ばれていた[43][53]。特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。1937年秋にアンネにサリー・キンメル(Sally Kimmel)という初めてのボーイフレンドができた。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになった[56]。陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気があった。映画スターやファッションに興味を持ち始めたのもこの頃だった。しかしアンネは病弱であり、百日咳、水ぼうそう、はしか、リューマチ熱など子供病にはほとんど罹患している[57][58]。 1938年10月にオットー・フランクはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」(Pectacon)を設立した[59]。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。ヨハンネス・クレイマンをオペクタ商会とペクタコン商会の監査役とし、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えている[60]。ファン・ペルス一家は1937年6月にドイツをのがれてアムステルダムへ移住して来ており、フランク家の近くで暮らしていた[61]。ファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。 1938年末には母エーディトの実家であるドイツ・アーヘンのホーレンダー家が経営する「B・ホーレンダー商事会社」が「アーリア化」(ドイツ政府の圧力の下にユダヤ人企業がドイツ人実業家に捨て値で買い取られる)を受け、ホーレンダー家が財産を失った[62][63]。エーディトの兄ユリウスは従兄弟のいるアメリカへ逃れたが、エーディトの母ローザは当時72歳で海を渡っての長旅は無理だった。結局ローザは息子ユリウスに同行せず、1939年3月にアムステルダムのフランク家へ移ってきて、一家は五人暮らしになった[62][64][65]。アンネはおばあちゃんっ子であり、よくローザに学校での話や友達とのことなどを話した[66]。 また1940年春ごろにはアメリカ合衆国アイオワ州ダンビル(Danville)からオランダへ赴任してきていた女教師バーディー・マシューズの計らいでアンネとマルゴーは、彼女の教え子であるダンビルの学校の生徒と文通することになった。アンネとマルゴーの文通相手はダンビルの農家の娘の姉妹ベッティ・アン・ワーグナー(Betty Ann Wagner)とホワニータ・ワーグナー(Juanita Wagner)であった。アンネはホワニータと文通した。ちなみにこの文通は英語で行われている。父オットーが娘たちの書いた手紙を英訳したものと思われる[67][68]。 ドイツ軍、オランダ侵攻 [編集] 1940年5月、アムステルダム市に入るドイツ軍を歓迎するアムステルダム市民。 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していた。しかし1940年5月10日早朝にドイツ軍はオランダへ侵攻した[69][70]。この日は金曜日で平日だったが、ドイツ軍侵攻を受けて聖霊降臨祭の休みが急遽繰り上げられて、学校は休みになり、アンネは自宅で待機した[71]。一方、父オットーは会社に出勤している。オットー以下オペクタ商会の社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープ・ヒースは著書の中で回顧している[72]。 オランダ国内はパニックに陥った。ポーランドで戦争後、オランダ政府は「たくさん蓄える者は国民に害」をスローガンに食糧配給制へ移行していたが、人々は食糧を蓄えようとして商店に殺到した。街中には空襲警報が連発した。ラジオ放送は混乱に陥り、相矛盾する命令や意味が不明瞭な命令を国民に次々と出した[73]。オランダ国内にいるドイツ人が手当たり次第にオランダ当局に逮捕された。自動車を所有する裕福なユダヤ人の中には、オランダからの脱出を試みようとアイマウデン(nl:IJmuiden)やスヘフェニンゲンなど海の方へ逃げる者もいたが、イギリス行きの船舶はわずかで、ほとんどはオランダ脱出に失敗している[74][75]。フランク一家は逃亡を試みなかった。フランク一家は自動車を所持していなかったし、オットーやエーディトは、青春期の娘二人や年老いた祖母を連れてあちこち逃げまわりたがらなかった。オットー達は娘たちが心配なく青春を過ごせるよう現下の政治情勢については家庭内でほとんど話さないこととした[76]。 5月13日にはヴィルヘルミナ女王やディルク・ヤン・デ・へール(nl:Dirk Jan de Geer)首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した[75]。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリー・ヴィンケルマン(nl:Henri Winkelman)大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。侵攻から一週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった[77][78][79]。 PR |
退陣 [編集]
1970年(昭和45年)の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった自民党副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつける」事を大義名分に、三木武夫を破り現在まで唯一・最多の自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。 また外交ではベトナム戦争における北爆を支持し左翼団体から猛反発を浴び、官邸前での焼身自殺事件までもを引き起こした。反共産主義で一貫して親台派アンチ中共の立場を取り続け、中華人民共和国の国際連合加盟に総理在任中は反対し続け野党だけでなく自民党内の親中派からも反発を招き、1971年(昭和46年)には福田赳夫外務大臣の不信任決議案に、河野洋平、田川誠一等親中派若手議員の一部が欠席している[24]。 しかし、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件(1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、通訳を務めた外交官の誤訳が起因とされている日米繊維交渉の拗れ、統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、総裁公選も田中が宿敵福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として7年8ヶ月に渡る長期政権を終えた。 退陣表明記者会見 [編集] 1972年6月の退陣表明記者会見の冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね? テレビカメラ…。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、新聞記者達は「じゃあ出ましょうか! 出よう出よう!」と全員が退席してがらんとした会見場で、一人テレビカメラに向かって演説した。 総理退任後 [編集] 1974年(昭和49年)晩秋、田中首相の日米にまたがる金脈問題が騒がれ始める中、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。その賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力する等世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。 1975年(昭和50年)5月19日、築地の料亭「新喜楽」において自身が主催する長栄会の席で自民党幹部・財界首脳と会食中に脳溢血で倒れる。4日間「新喜楽」で容態を見たのち東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後、6月3日に死去。74歳だった。 6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行なわれた。葬儀委員長は、田中角栄。遺族代表は兄岸信介だった。 浄土真宗本願寺派第23世勝如門主より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県の佐藤家菩提寺より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福の本願寺築地本願寺和田堀廟所と山口県田布施町にある。 倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』(全7巻)が、朝日新聞社で1996年(平成8年)から1997年(平成9年)に刊行された。生前は、日記の刊行を持ちかけられると「僕は120歳まで生きるから」とかわしていた。遺族と交渉して実現した。 |
内閣総理大臣 [編集]
就任 [編集] 1964年(昭和39年)7月、佐藤は池田勇人の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが[17]、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した[18]。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した[19]。 総裁公選のすぐ後に当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。田中角栄はのちにこれについて、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語っている。 在任中の主たる施策 [編集] 首相在任中は、ILO第85号条約(結社の自由と団結権の保障、要は労働組合の結成に関する規定)批准、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決等を行なった。 また、1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。 その一方で、1964年(昭和39年)10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年(昭和40年)1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている[20]。 就任翌年の1965年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。 しかし、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後の1994年(平成6年)に暴露された(日米核持ち込み問題)。その後アメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年(平成21年)12月に報道された[21]。 長期政権とその背景 [編集] アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと(1972年) 政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥(おちい)ることなく日本政治史にも稀な長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。 この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進(まいしん)し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌(おうか)していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、皮肉にも佐藤政権の下で日本経済は池田時代以上の成長を続けた。 さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田は間もなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した[22]。 特に世論から期待の声が高かった実力者・河野の死は極めて大きかった。 このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮沢喜一、竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術[23]で政権の求心力を維持し続けた。また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といったその後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案等による野党懐柔がこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で参議院自民党の実力者であった重宗雄三参議院議長と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄幹事長や園田直国対委員長等に強行採決を自ら指示する事もあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭する等、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。 こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。 |