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【2024/11/28 08:35 】 |
佐藤栄作
├─≠ョ─ヵラス ノーベル平和賞
├─≠ョ─ヵラス









概要 [編集]

東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。
一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。20世紀生まれ初の総理である。自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。
生涯 [編集]

生い立ち [編集]
現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業・佐藤秀助、茂世(もよ)の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年(明治31年)頃、勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は他家に貸していたものだったが母茂世(もよ)が分家するに当たって酒造の権利を取り戻して茂世(もよ)にあたえられていた。秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。[1]
地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している[2]。
学生時代 [編集]
1907年(明治40年)小学校に入学した。小学校の頃のあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ。[3] また、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶し、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある。[4]
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた[5]。 池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという[6]。
東京から電報で「五高入学おめでとう」と知らせてくれたのは松岡洋右だった。田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。山口中学の同級生も合格したし池田勇人の名もあった。池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である。[7]
1921年(大正10年)4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。
高等文官試験 [編集]
1923年(大正12年)12月高等文官試験(行政)合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方が余程悪くて、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで焼野原を歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている。[8]。
大正13年(1924年)4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。
就職 [編集]
当時満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたので採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された。[9]。
官僚時代 [編集]
1924年(大正13年)5月、鉄道省に入省。
以後、鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。
1944年(昭和19年)4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある[10]。長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている[11]。
1945年3月13~14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(現・大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した[12]。 左遷されていたことが幸いして岸が遭った公職追放からは免れることができた[13]。
1947年(昭和22年)に社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、当時運輸次官だった佐藤は西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年(昭和23年)退官し、民主自由党に入党した。
政歴 [編集]
遠縁に当たる吉田茂首相とは早くから親交があり、その勧めで総選挙に出馬を予定していたが[要出典]、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣[13]。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となる。自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚し、逮捕状を出されると、犬養健法相に検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田首相に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた[14]。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連恩赦」で免訴となる。
保守合同による自由民主党結成では自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った[15]。 鳩山一郎引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、三木武夫政務調査会長と共に岸政権を支えた。続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった[16]。
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【2010/11/02 22:57 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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