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【2024/11/28 09:49 】 |
踊り265
内閣総理大臣 [編集]
就任 [編集]
1964年(昭和39年)7月、佐藤は池田勇人の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが[17]、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した[18]。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した[19]。
総裁公選のすぐ後に当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。田中角栄はのちにこれについて、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語っている。
在任中の主たる施策 [編集]
首相在任中は、ILO第85号条約(結社の自由と団結権の保障、要は労働組合の結成に関する規定)批准、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決等を行なった。
また、1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。
その一方で、1964年(昭和39年)10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年(昭和40年)1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている[20]。
就任翌年の1965年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。
しかし、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後の1994年(平成6年)に暴露された(日米核持ち込み問題)。その後アメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年(平成21年)12月に報道された[21]。
長期政権とその背景 [編集]


アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと(1972年)
政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥(おちい)ることなく日本政治史にも稀な長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。
この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進(まいしん)し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌(おうか)していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、皮肉にも佐藤政権の下で日本経済は池田時代以上の成長を続けた。
さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田は間もなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した[22]。 特に世論から期待の声が高かった実力者・河野の死は極めて大きかった。
このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮沢喜一、竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術[23]で政権の求心力を維持し続けた。また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といったその後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案等による野党懐柔がこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で参議院自民党の実力者であった重宗雄三参議院議長と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄幹事長や園田直国対委員長等に強行採決を自ら指示する事もあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭する等、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。
こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。
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【2010/11/02 22:58 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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