× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
岩本 輝雄(いわもと てるお、1972年5月2日 - )は神奈川県横浜市金沢区出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。ベルマーレ平塚を皮切りに名古屋グランパスエイトを退団するまで6チーム(ベルマーレの前身、フジタを除く)に在籍した。
2004年に名古屋グランパスエイトを退団後、約2年間選手生活から遠ざかっていたが、2006年10月、ニュージーランドのオークランド・シティFCと契約を結び、12月に行われたFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区代表として2試合に出場。 現在は現役時代に在籍していたクラブの1つであるベガルタ仙台でアンバサダーを務める。 目次 [非表示] 1 来歴・人物 1.1 怪我との戦い 1.2 タレントとしても活動 1.3 現役復帰 2 所属クラブ 3 個人成績 4 エピソード 5 代表歴 5.1 試合数 6 タレント活動 6.1 バラエティ番組 6.2 その他のテレビ番組 6.3 イベント出演 7 外部リンク 来歴・人物 [編集] ファルカン監督時代の日本代表では10番をつけてプレイした経歴を持つ技巧派で、左足のキックの精度と威力は歴代日本人選手の中でも屈指の存在である。中でもベガルタ仙台時代の2003年10月18日にジェフユナイテッド市原戦で約40mの距離から直接決めた豪快な弾丸ライナー性のフリーキックはJリーグ史上最も美しいゴールの一つとして紹介されることがある。 しかし、ファルカンに10番として選ばれた日本代表ではほとんど活躍せずに終わった。平塚時代の大先輩、信藤健仁は当時の月刊ベルマーレにて、「テルは選ばれるのが早すぎた、野口は選ばれるのが遅すぎた」と発言している。当時アイドル的扱いを受けており、この期にもっとサッカー選手として成熟していれば、と悔やむがゆえの発言である。 明るく天真爛漫な性格からスター性があり、多くのファンを持ち、Jリーグオールスターサッカーには6度出場している。フジタ/ベルマーレ平塚時代、ニカノールヘッドコーチに見出され左サイドバックへコンバート、右サイドバックの名良橋晃と共に、どんどん攻撃参加する超攻撃的な両サイドバックとしてJリーグ昇格に貢献した。ニカノールからは「守備がきちんとできれば日本一の左サイドバックになれる」と言われたほどだった(が、ついにそれを実現することはなかった)。その活躍が認められ代表にMFとして選出された。草創期のベルマーレを象徴するダイレクトプレーでの素早いサイド攻撃を牽引し、天皇杯優勝、1994年NICOSシリーズ2位など「ベルマーレ旋風」の原動力となる。 技術・攻撃力に長けるが、守備・運動量に欠けるいわゆる「スター選手」だった。ベルマーレ旋風の原動力になれたのも、サイドバックからOHの位置にあがり、守備のスペシャリスト、公文裕明が左サイドバックに入ったからである[要出典]。名古屋グランパスに移籍した際、鹿島アントラーズから移籍してきたDF秋田豊に「正直言ってすぐ消える選手と思っていたのにまだ現役でやっているね」と言われたことがある。 怪我との戦い [編集] 華やかな活躍の裏で怪我には何度も泣かされている。 1995年には短期留学したブラジルで右足甲を痛め、代表定着のきっかけを失うと、リーグ戦で今度は左膝靱帯を傷めてしまい靱帯に筋を移植、半月板を一部切除する手術を2回受けたため、チームのアジアカップウィナーズカップ初制覇に帯同できなかった。 故障の影響からか、その後ベルマーレ平塚での活躍ぶりに陰りが見え始め、京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)、川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)へ次々と移籍した。しかし、怪我がちでなかなかチームに定着できずにレギュラーを奪えないことが続き、遂にはヴェルディ川崎を自主退団してしまう。 半年ののちに入団したベガルタ仙台では、左サイドでの攻撃の軸として復活を果たし、チームをJ1へと導くゴールを挙げた財前宣之へのクロスに象徴される数々のアシストを記録する。2004年には名古屋グランパスエイトへ移籍したが、ここで彼の現役生活を脅かす怪我に泣かされることになる。 5月29日のナビスコカップ予選Bグループ第3節対アルビレックス新潟戦(名古屋市瑞穂公園陸上競技場)でジャンプ後の着地に失敗して右足首を負傷し、途中交代した(本人曰く「『ズルッ』と足首の骨が内側にずれる音がした」とのこと)。診断結果が「靱帯の一部損傷」と意外と軽症だったのでしばらくして練習に再開はしたものの、まったく痛みが治まらず別の医師の診察を受けたところ「捻挫」だったりと症状がはっきりしなかったため、なかなか試合に復帰することができなかった。実際には負傷した時既に靱帯が切れていたのだが、足首靭帯断裂という怪我の手術ははほとんど前例がなかったために発見と治療が遅れ、10月、12月に2回手術を受けたが回復しないまま名古屋グランパスエイトを退団。長いリハビリの日々が始まった。2回の手術で歩行可能にはなったものの、慢性的な痛みが残り、軽く運動しただけで足首はテニスボールのように腫れたという。 2005年、癒着してしまった患部の肉を取り除く手術を行ったことである程度動けるようになり、11月にメキシコリーグのトルーカの入団テストを受けるが遂に痛みが限界に達し、途中帰国してしまう。最初の手術で靱帯を固定するために穴を開けていた骨が疲労骨折を起こしていたのが原因で、患部もさらに悪化してしまっていた。 ボールを蹴ることができなくなってしまったため、復帰へのモチベーションを失いつつあったが気分転換にスペインへ短期留学を行い、語学の勉強を行っていた際にリーガ・エスパニョーラの試合を観戦したことで「ピッチに戻りたい」という気持ちを再確認する。またこの頃ロベルト・バッジオの専属トレーナーだったイタリア人医師と知り合い、イタリアのボローニャまで訪ねて診察をしてもらったところ彼の診断結果が非常に見通しの明るかったことも復帰へ意欲を取り戻すために十分な影響を与えた。 タレントとしても活動 [編集] リハビリの傍ら芸能プロダクション三桂と契約し、タレントとしても活動をしていた。 2006年、4月から6月にかけてNHK衛星放送『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』に旅人として出演。徒歩により約500kmある東海道五十三次を2ヶ月半かけて完全制覇した。また、4月発売のゲームウイニングイレブン10の中ではピッチレポーターとして登場している。 2008年のNHK教育テレビ『テレビでスペイン語』では得意のスペイン語を生かしてExamen(試験)コーナーでトップ賞を数多く勝ち取っている。9月11日放送分で最後を待たずに総合優勝した。 現役復帰 [編集] 番組が終了する6月を待ってイタリアで癒着している患部を手術する予定だったが、約500kmを歩いたことがリハビリになり功を奏したのか、不思議なことに足首の痛みが和らいだ彼は再びトレーニングを始める。 クラブチームの練習に参加し順調な回復を見せていたため、8月にはJリーグのクラブとの契約交渉まで話が進展したが契約は実現せず、海外へ活動の場を求めていた彼にニュージーランドのオークランド・シティーからオファーが届く。12月に控えたFIFAクラブ世界選手権のために、即戦力として日本での実績と知名度がある岩本に白羽の矢が立ったのだ。オークランド・シティーはアマチュアクラブであったため報酬はほとんど出せない状態だった。それでもプレーできる環境を探していた岩本は熱心に掛け合った。そして10月19日、7週間の短期契約を結び、2年ぶりの現役復帰を果たした。 12月のFIFAクラブ世界選手権で途中出場ながら2試合に出場。これをもって正式に現役を引退。古巣である湘南ベルマーレからのオファーもあったが、断りを入れた(クラブワールドカップ後、フロントスタッフが母親から涙ながらに『もういいでしょ?』と言われ何も言えなかったらしい)。「今後はサッカー解説者に専念する」としていたが、再度の現役復帰を目指して練習中との報道もある[1]。 PR |
|
トラックバックURL
|