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【2024/07/05 05:02 】 |
伊東 輝悦
伊東 輝悦(いとう てるよし、1974年8月31日 - ) は静岡県清水市(現静岡市清水区)出身のプロサッカー選手。現在のJ1最多出場記録保持者(現役)。Jリーグの清水エスパルス所属。
目次 [非表示]
1 人物・評価・プレースタイル
2 経歴
3 趣味
4 所属クラブ
5 個人成績
6 個人タイトル
7 代表歴
7.1 出場大会など
7.2 試合数
8 関連項目
9 脚注
人物・評価・プレースタイル [編集]

運動量とカバーリングが冴えわたるボランチ・ディフェンシブハーフ。センターバックの前で危険なスペースを消すカバーリングや鋭い読みから縦パスを遮断する危機察知能力には定評があり、近年ではアンカーを務めることや攻撃的な枝村匠馬と組むことが多いため、バイタルエリアを一人でカバーしている。そのプレーぶりはマケレレにちなみ「テルレレ」と呼ばれることもある。日本代表監督であったフィリップ・トルシエは伊東を「日本のデシャン」と評した。またアトランタ五輪代表では、監督の西野朗から影のエース(表のエースは前園真聖)と呼ばれ、絶大な信頼を受けていた。ディフェンシブなポジションであるにも関わらず被警告数が極端に少ないフェアプレーも特徴である。本人曰く「ファウルで(相手を)止めるのは簡単だが、それでは成長がない」。体格的に恵まれないため、力ではなく相手の先を読みボールを奪う技術に優れ、奪った後のボールが味方へのパスになるようプレーをしている[1]。
現在は守備的なプレースタイルであるが、プロ入り後数年は守備的なボランチ(アトランタ五輪代表当時は広長優志、服部年宏)と組んで攻撃的な役割を担う事も多かった。ずんぐりとした体型と重心の低いドリブルフォームから、マラドーナに擬えてテルドーナの異名も持っている。
経歴 [編集]

小学生時代から多くのサッカー関係者に注目されていたが、当時は小柄なMFではなく長身FWだった。小学6年生の時には清水市の選抜チームの清水FCのエースとして田島宏晃らと共に全日本少年サッカー大会優勝を経験している。
高校は東海大学第一高校に進学。同校は2学年上に森島寛晃、後にアトランタオリンピック代表となる服部年宏(1年先輩)、松原良香、白井博幸らをはじめ、後にJリーガーとなる選手が数人がいるチームだったが、清水商業、清水東、静岡学園などの壁に阻まれ高校選手権には一度も出場できず、地元開催で2枠の出場があった1991年度高校総体での準優勝のみが目立った成績となった(決勝戦の相手は清水東で、後に清水エスパルスでチームメイトとなる田島宏晃、斉藤俊秀が所属)。
しかし静岡県選抜としては国体2年連続優勝に貢献。各世代の日本代表にも選ばれるなど評価は高く注目されていた。ドリブルで一気に数人を抜きさるようなプレーから、テルドーナとも呼ばれ、普段は淡々とプレーしていることとのギャップから、当時のチームメイト達に「あいつが本気になったら誰もかなわない」と言わしめた。
高校卒業後1993年に地元の清水エスパルスに入団。エスパルスではプロ3年目の1995年から頭角をあらわす。同年11月8日の鹿島アントラーズ戦(日本平スタジアム)にて、相手を3人抜き去って決めたゴールは語り草となっている。
1996年のアトランタオリンピックに出場。初戦のブラジル戦で決勝ゴールを決めマイアミの奇跡の立役者となる。3戦目のハンガリー戦でも前園真聖の決勝ゴールをアシストした。
1997年には加茂周監督の下、A代表に初選出される。1998年のフランスW杯のメンバーにも岡田武史監督の下、選出されたが、試合に出場することはできなかった。
1999年にスティーブ・ペリマン監督の下、Jリーグセカンドステージ優勝を果たしその年のベストイレブンに選出されるが、アタッキングゾーンでのプレーを求められなかったため、このころから攻撃的なプレーが少なくなる。
フランスW杯後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では運動量と守備的意識を買われ、ついにレギュラーの座を獲得する。トルシエ時代にはボランチ以外に右ウイングバックとして起用されることも多かった。2000年のカールスバーグカップ・メキシコ戦では初のゲームキャプテンを任せられるなど、トルシエ監督からは絶大な信頼を得る。(合宿終了後にゲームキャプテンから一言と言われた際、寡黙な性格のためか「お疲れ様でした」の一言しか言わなかった。) しかし2002年の日韓W杯メンバーには、負傷から復帰した直後のタイミングとなってしまい選出されなかった。
2007年11月11日のサンフレッチェ広島戦(日本平)にて、藤田俊哉に続いて史上2人目のJ1通算400試合出場を達成した(同一クラブ所属では史上初の快挙)。2008年5月11日の鹿島戦(日本平)ではJリーグ通算最多出場となる415試合出場を達成、2009年6月27日のFC東京戦(国立)にて、J1史上初となる450試合出場を達成した。
趣味 [編集]

パチンコと登山が趣味。シーズンオフには登山のために海外を訪れるほどの山好きで、静岡朝日テレビ『スポーツパラダイス』の企画で雪山登山をした際には、今まで清水のチームメイトにすら見せたことがないという笑顔で楽しむ光景が放映された。その様子をゲストとしてスタジオで見ていた西澤明訓は「パチンコしてるときよりもいい顔をしている。」と評した。
所属クラブ [編集]

1990年 - 1992年 東海大学第一高校
1993年 - 現在 清水エスパルス
個人成績 [編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1993 清水 - J 0 0 0 0 3 1 3 1
1994 清水 - J 6 0 1 0 0 0 7 0
1995 清水 - J 44 4 - 1 0 45 4
1996 清水 - J 26 4 7 1 3 0 36 5
1997 清水 7 J 31 7 6 1 3 1 40 9
1998 清水 7 J 34 5 1 0 5 0 40 5
1999 清水 7 J1 29 1 4 1 3 0 36 2
2000 清水 7 J1 24 1 4 0 5 1 33 2
2001 清水 7 J1 27 1 2 0 1 0 30 1
2002 清水 7 J1 22 0 2 0 3 0 27 0
2003 清水 7 J1 30 2 4 0 4 0 38 2
2004 清水 7 J1 30 1 7 0 1 0 38 1
2005 清水 7 J1 32 0 5 0 5 0 42 0
2006 清水 7 J1 34 2 5 0 3 0 42 2
2007 清水 7 J1 34 1 2 0 3 0 39 1
2008 清水 7 J1 34 0 9 0 2 0 45 0
2009 清水 7 J1 30 0 8 0 2 0 40 0
2010 清水 7 J1
通算 日本 J1 467 29 67 3 47 3 581 35
総通算 467 29 67 3 47 3 581 35
その他の公式戦
1996年
サントリーカップ 1試合0得点
1999年
スーパーカップ 1試合0得点
Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
2001年
スーパーカップ 1試合0得点
Jリーグ初出場 - 1994年6月11日 対ガンバ大阪戦(日本平)
Jリーグ初得点 - 1995年8月16日 対浦和レッドダイヤモンズ戦(駒場)
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2002-03 清水 7 3 0
通算 AFC 3 0
個人タイトル [編集]

1999年 - Jリーグ ベストイレブン
2007年 - Jリーグ フェアプレー個人賞
代表歴 [編集]

出場大会など [編集]
1996年 アトランタオリンピック
1998年 ワールドカップ フランス大会
試合数 [編集]
国際Aマッチ 27試合 0得点(1997-2001)

日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1997 1 0
1998 1 0
1999 7 0
2000 7 0
2001 11 0
通算 27 0
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【2010/11/18 22:26 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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