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マイケル・ジェームス・オーウェン(Michael James Owen, 1979年12月14日 - )は、イングランド・チェスター出身のサッカー選手。ポジションはFW。
イングランド代表の得点ランクでは現役選手1位で、歴代3位の41得点を誇る。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 ユース〜リヴァプール所属時代 1.2 レアル・マドリード時代 1.3 プレミアリーグ復帰とその後 2 移籍を巡るエピソード 3 プライベート 4 個人成績 5 タイトル 5.1 クラブ 5.2 個人 6 脚注 7 外部リンク 経歴 [編集] 1979年12月14日、父テリー、母ジャネットとの間に生まれる。幼少時代はウェールズで過ごした。 ユース〜リヴァプール所属時代 [編集] リヴァプールFCのユースチームで才能を発揮し、1995年にリヴァプールとプロ契約を交わす。1997年5月にプロデビューを果たすと、1998年2月には当時のイングランド代表史上最年少で代表に招集され、その年の5月には対モロッコ戦で初ゴールをマーク。さらに同年、フランスW杯のメンバーに大抜擢される。決勝トーナメント1回戦の対アルゼンチン戦では先発出場を果たし、センターサークル近辺でパスを受けた直後にドリブルを仕掛け、驚異的なスピードでディフェンダー2人を抜き去り、ゴールを決める離れ業をやってのける。17歳の少年が決めたこのゴールは世界のサッカーファンの度肝を抜き、彼は一夜にして「ワンダーボーイ」と言う綽名と共に、その名を知らしめる事となる。 鮮烈なW杯デビューを飾ったその後もリヴァプールのエースとして前線に君臨し、FAプレミアリーグでは1997-1998、1998-1999の2シーズン連続で得点王を獲得。 レアル・マドリード時代 [編集] 2004年にはリーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリードへ移籍した。ロナウド、ラウル・ゴンサレスらスーパースターがいるために彼らの怪我や休養以外ではなかなかスタメンに定着できなかったが、文句も言わず途中出場でも得点を決めるなど結果を出し、アピールし続けた。更に、当時のレアル・マドリードの監督であったルシェンブルゴとフィーゴの確執により二人の関係が悪化したこともあり、2005年のエル・クラシコではスタメンを獲得。その試合で、デビッド・ベッカムの縦パスから裏へ抜け出し4点目のゴールを決める等活躍し、4-2の勝利に貢献した。それ以降もスタメンでプレー、トップにオーウェンとロナウドを、セカンドトップ(1.5列目)にラウルを置くという変則3トップを形成し、レギュラーとして残り試合を出場した。 2005-2006シーズンより故郷であるイングランドに戻り、アラン・シアラーの誘いでニューカッスル・ユナイテッドへ移籍した。この時の移籍は、監督であるルシェンブルゴがブラジル人を重用し、さらにこの年、ジュリオ・バティスタ、ロビーニョといったブラジル人選手を獲得して監督の構想から外れ、また、移籍期限ギリギリにセルヒオ・ラモスを獲得するための移籍金捻出のために、半ば追い出されるような格好でクラブを去ることになった。ベンチでも不平不満を一切言わず、この年チーム内最多の38試合に出場(その内20試合がスタメン出場)し、さらにチーム内2位の16得点(得点率は1位)をあげ、レギュラーを獲得してからも献身的に動き回る彼のプレーぶりから、この移籍に納得のいかないファンも少なくなかった。尚、オーウェンが得点を挙げた試合は、レアル・マドリードは不敗であった。 プレミアリーグ復帰とその後 [編集] 期待されて臨んだ2005-2006シーズンだったが、職業病とも言える中足骨の骨折により大半を棒に振る。その後、最先端の医学を駆使して治癒させた後、2006年5月8日、自身3度目となるドイツW杯のメンバーに選ばれるも、6月20日に行われたグループリーグ最終戦、対スウェーデン戦の試合開始1分で右ひざの十字靭帯を断裂。全治5ヶ月の怪我を負ってしまい、チームから離脱してしまった。ちなみに試合開始1分での退場はワールドカップ記録である。リーグ戦もフル稼働することは少なく、2008-2009シーズンに所属したニューカッスルは降格している。 2009年7月3日、ニューカッスルとの契約が終了したオーウェンが、マンチェスター・ユナイテッドFCと2年契約を結んだことがマンチェスター・ユナイテッドのホームページで発表され、7月13日の記者会見でジョージ・ベスト、ブライアン・ロブソン、エリック・カントナ、デビッド・ベッカム、クリスティアーノ・ロナウドらが付けていた栄光の7番を与えられた。9月のマンチェスターダービーでは後半ロスタイムに決勝ゴールを挙げている。12月8日のUEFAチャンピオンズリーグ・VfLヴォルフスブルク戦では、自身2005年以来となるハットトリックを達成した。 2010年FIFAワールドカップは、2月のフットボールリーグカップ決勝で太もも裏を負傷したことにより、欠場となった。 移籍を巡るエピソード [編集] 2001年のバロンドール獲得前後から、国内外への移籍の噂が紙面を賑わしたが、当時のリヴァプール会長は、「世界中の全ての金を集めたとしても、マイケルの右足1本分にもならない」と発言し、チームとして絶対に放出はないと強調していた。 オーウェンがレアル・マドリードCFからイングランドのニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍し、2006年12月26日、初めて敵としてアンフィールドに帰還した時、アンフィールドのファンはオーウェンに対して愛憎入り混じった感情を胸に秘めていた。事実、試合前の選手紹介では、ブーイングと同じ位の拍手がKopグランドスタンドやメインスタンドからオーウェンに送られ、またオーウェンが試合中に初めてボールを受けた時も、一部のファンから「Where were you in Istanbul?(イスタンブルの何処にいたんだ?)[1] 」のチャントが出たものの、それほど感情的なものではなく、むしろオーウェンの帰還を祝う雰囲気ですらあった。 しかし、試合の後半、シャビ・アロンソに対するファウルによって、リー・ボウヤーがレッドカードを受けると雰囲気が一変し、オーウェンがボールを受ける度、前述した「Where were you in Istanbul? 」はもちろん、「what a waste of your talent![2]」や「you've joined the big club![3]」も出た。マージーサイドのスカウサー[4]のマイケル・オーウェンに対する心情は、オーウェン以前にもマッカ(スティーブ・マクマナマン)事件[5]や、さらにはスティーヴン・ジェラードまでがマドリーの引き抜きのターゲットになるなど、オーウェン個人以外の要素が複雑に絡みあうため、非常に微妙なものがある。またこのような一連の出来事のためスカウサーにとって「マドリード」とは忌み嫌われる怨念の地の代名詞でもある。 このスカウサー達の複雑な心情がボウヤーのレッドカードによって一気に爆発したため、上記のような容赦ないブーイングがオーウェンに浴びせられた。このことに対して、オーウェンと共にリヴァプールアカデミー出身のキャプテン、スティーヴン・ジェラードは「マイケルは今でもリヴァプールのレジェンドでファンは拍手で歓迎するべきだ」とコメントした。また試合後にもジェラードやキャラガーがオーウェンに対するブーイングは非常に残念で悲しかったと発言するなど、オーウェンが未だにリヴァプールの現選手(特にアカデミーから一緒の選手)にとって偉大な存在であることが改めて浮き彫りとなった。なお、ジェラードは長年、「オーウェンとイングランド代表だけでなくリヴァプールでもプレーを行いたい」との発言をし続けており、多くのリヴァプールサポーターもオーウェンのリヴァプール復帰を心から待ち望んでいた。 しかし前述の通り、ニューカッスルの降格に伴ってオーウェンが選んだ新たな移籍先はKopやリヴァプールサポーターが最も憎むチームの1つであるマンチェスター・ユナイテッドFCであった。2009年10月25日、アンフィールドで行われた2009-2010シーズンのプレミアリーグ第10節、リヴァプール対マンチェスター・ユナイテッド戦にて後半29分、オーウェンが途中交代で出場すると多くのリヴァプールサポーターからブーイングが起こった。 プライベート [編集] 趣味はゴルフと競馬。中でも競馬は相当な熱の入れようで、年間1億円近く負けているとの話も(本人談)。また、W杯日韓大会でも日本の中央競馬をやっていたほど。自身も馬主として競走馬を所有しているが(名義はOwen Promotions Limitedで登録されている)、とうとう趣味が高じ、2007年にはチェシャー州に自らの厩舎「マナーハウス・ステイブルズ」を開業した。馬達の管理は専属調教師であるニッキー・ヴォーガンによって執り行われている。 日本では2003年12月から洋服の青山のCMに出演していた。 2005年6月、幼馴染のルイーズ・ボンサルと結婚した。なお二人の間には、2003年5月、2006年2月、2007年10月、2010年2月に子供が誕生している(娘3人と息子1人)。生真面目で物静かな好青年と評されている。デビッド・ベッカムやウェイン・ルーニーとも仲が良い。 |
セオドア・ジェイムズ・ウォルコット(Theodore James Walcott, 1989年3月16日 - )は、イングランド、ロンドンハーロウ特別区スタンモア生まれのサッカー選手。ポジションはフォワード。母はイングランド人で父はジャマイカ人[1]。現所属クラブのアーセナルFCやイングランド代表では、中盤右サイドや右ウイングとして起用されている[2]。
目次 [非表示] 1 経歴 2 代表 2.1 2006 FIFAワールドカップ 2.2 EURO2008、2010 FIFAワールドカップ 3 所属クラブ 4 人物 5 個人成績 6 経歴 7 脚注 経歴 [編集] ウォームアップするウォルコット 生まれはロンドン郊外だが、幼少期に移り住んだイングランド南部のニューベリー近郊で育った。10歳でサッカーを始め、地元のクラブでは14歳の1年間に100ゴール以上を挙げるなど突出した才能の持ち主と知られていた。その後サウサンプトンFCのユースチームに加入する。 サウサンプトンでは2004-05シーズンに同クラブ史上最年少となる15歳と175日でのプレミアリーグでのベンチ入りもした(試合には出ていない)。サウサンプトンFCはこのシーズン低迷し、翌シーズンは2部リーグに当たるフットボールリーグ・チャンピオンシップに降格してしまったが、ウォルコットはそのクラブとプロ契約を行った。そして開幕戦で途中交代で出場し16歳と173日でトップチームデビューを飾ると、主力の一角として活躍するようになった。 イングランドにはあまりいないタイプの選手と言うことから、同国の将来を担っていく存在として多くのクラブが彼に興味を示すことになり、2006年の1月20日、アーセナルFCが最高24億円という移籍金を支払い獲得。アーセナルとともにチェルシーFCも狙っていたが、若手育成に定評のあるベンゲル監督とティエリ・アンリの存在が決め手となり、本人がアーセナルを希望したという。 少しずつ試合出場を増やし、2007年2月25日に行われたフットボールリーグカップ決勝(対チェルシー戦)において移籍後初ゴールを決める。そして翌2007-08シーズンはリュングベリやアンリの移籍で出場機会が増え、飛躍の年となった。チャンピオンズリーグのスラビア・プラハ戦ではFWとして先発し、自身のチャンピオンズリーグ初ゴールを含む2ゴールを決めた。同大会の決勝トーナメント1回戦のACミラン戦では、抜群の快足でサイドを駆け上がり、だめ押し点となるアデバヨールへのアシストを決め、プレミアシップのクラブとしてサンシーロで初めてACミランを撃破するという快挙に貢献する。同大会の準々決勝のリバプール戦では、自陣のバイタルエリア付近から相手のゴール前までの距離(約80メートル)を4人の相手DFをかわしながら一人で駆け抜け、アデバヨールのゴールをアシストした。チームは敗れたものの、強烈な印象をアンフィールドのみならず全世界に残した。また、同シーズン2月23日のバーミンガム戦でリーグ戦初ゴール(試合では2ゴール)を決め、ここからリーグ戦合計で4ゴールという結果を残した。 2008-09シーズンからはさらなる活躍を期待され、アンリがアーセナルで着けていた背番号14を受け継ぐ。 代表 [編集] 2006 FIFAワールドカップ [編集] 代表デビューはワールドカップ直前の親善試合、ハンガリー戦。後半20分にマイケル・オーウェンに代わって出場し、後半43分には初シュートも放った。17歳75日のイングランド代表史上最年少デビューを飾り、ルーニーが持っていた17歳111日の記録を塗り替えた。さらには2006 FIFAワールドカップのイングランド代表に17歳3ヶ月足らずで招集とトントン拍子で飛躍した。10代の頃から注目を浴びたことでマイケル・オーウェンやウェイン・ルーニーと度々比較されるも、所属クラブでの定位置確保がなかなか出来ないこともあって、代表デビューの早さ以外では、同年齢時の代表における実績はオーウェンやルーニーよりも相当見劣りしていた。 2006年ワールドカップにおいて当時のエリクソン監督はストライカーとしてオーウェン、ルーニー、クラウチとともにウォルコットを招集した。この招集には批判の声も大きく、プレミアリーグで何の実績も無いウォルコットよりはジャーメイン・デフォー、あるいはダレン・ベント、アンディ・ジョンソン、ディーン・アシュトンらから選ぶべきではないかとも囁かれた。実際、本大会ではエースのオーウェンが故障離脱した後ルーニーとクラウチの2トップ以外に実戦的な選択肢が無くなり、エリクソン監督の選択は裏目に出た。しかし将来を睨んでの判断として一部では評価されていた。 EURO2008、2010 FIFAワールドカップ [編集] ファビオ・カペッロ監督就任後は主に中盤の右サイドを任されており、2008年9月6日に行われたW杯予選のアンドラ戦ではスタメン出場し活躍。続く9月10日のクロアチア戦では代表初ゴールを含むハットトリックを記録し勝利に貢献した。この試合の相手であるクロアチアにイングランドはEURO2008予選で2連敗し、結果的に本戦出場を逃していたため、リベンジの大きな立役者として一躍ヒーローとなった。 また、クロアチアはこの試合で公式戦ホームでの連続無敗記録が「35」で途切れることになった。 2010年4月2日にウェンブリー・スタジアムで行われた親善試合エジプト代表戦後には、後半早くにショーン・ライト=フィリップスと交代となった彼のパフォーマンスに元イングランド代表ウィンガーのクリス・ワドルが、「ウォルコットにはサッカー脳がない。サウサンプトンにいたころからまったく進歩していない」と酷評された[3]。 事前の予想に反して2010 FIFAワールドカップの代表メンバーには選出されなかった。これはメンバー発表の2日前に行われた日本代表との親善試合において、ウォルコットがイングランド代表監督ファビオ・カペッロの指示に従わなかったことが原因であると英紙ザ・サンに報道された[4]。 所属クラブ [編集] 2005-2006 サウサンプトン 2006-現在 アーセナル 人物 [編集] わずか14歳にしてナイキ社とスパイクの契約を行っている。 彼の父親そして自身もリバプールのファンであることを認めている。ウォルコットの場合、憧れの選手がマイケル・オーウェンやロビー・ファウラーだったことが大きいという。 |